意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

わたくしたちは、文字である

叔父は文字である。

これは、円城塔の「これはペンです」の書き出しである。記憶で書いているから、「文字だ」だったかもしれない。とにかく、文字の叔父が出てくる小説だ。

最近、他人様のブログでよく目にする内容があり、それは、「ネットとリアルの境界、云々」というものだった。もとはひとつの記事である。それを読んだズイショさんと、あじさいさんが、
「俺はこのブログを、リアルの友達、家族なん人に教えてる」
というのを、表明していた。私も対抗したいところであるが、私の場合は今のところ二名だ。ひとりは、私のドラムの師匠です。この人は、私の人生で唯一師と呼べる人で、尊敬しているので、教えた。もうひとりは、奇しくもおととい美容院へ行ったら、たまたまホームページの話になって、どうやって検索上位にくるかみたいな話になった。私は、これでも元はシステムエンジニアをしていたこともあったから、つい知ったかをしてしまい、
「自分もブログやってますよ」
と口をすべらせた。どうして、検索上位の話で私のブログをアピールしてしまうのか。これはただの私の自己顕示欲である。そうしたら、髪を染め終わったくらいに、美容師が、
「じゃああとで読んでみます。なんて検索すればいいですか?」
と訊かれたので、
「fktackです」
と答えた。
「tは大文字ですか?」
「いいえ、全部小文字です。または、「大町久美子 性癖」で、二番目に出てくるのが、自分のブログです」
「大町久美子?」
課長島耕作の、愛人? 恋人? ヒロインです」
島耕作って結婚してましたよね?」
「途中で離婚しました。島耕作は、相当エロい漫画ですよ」
「サラリーマンのバイブルとか言われてますよね?」
「いえ、エロですね。でも、今は社長になったから、あんましエロくないかもしれません。自分は、部長の途中までしか読んでません。あと、「ヤング」とか。ヤングは主任になりました」
どうでもいいが、私は三十歳も過ぎたので、自分の一人称をなんにするか、最近よく迷う。親しい人なら、「俺」と言っているが、さほどでもない人なら「自分」と言う。美容師相手にも、「自分」だが、最近は「俺」も混ぜている。「私」は、まず言わない。

少し前に、キューカさんのブログで、
「私は美容師とはほとんど話すことができない。おかげで鳥の巣のような頭にされた」
という主旨のことが書かれていて、私はコメントで
「私は一対一はめっぽう強いから、髪型もいつもばっちりです。ブランキージェットシティの、浅井さんのような髪型にしてもらいます」
などと記した。私は、そんなことを言った翌日くらいに美容院に行ったので、張り切って喋ろうと思っていた。すっかり気の大きくなった私は、たまにはナビなど使わずに店に行ってやろうと思い、そうしたら最初の交差点すら、通り過ぎた。慌てて車を停め、目的地を設定したら、寺へ誘導された。いつものルートならば、家庭裁判所の前を通る。寺は、桜の名所であり、ナビなりに気を遣ったのかもしれないが、大きなお世話であった。もう一度設定すると、生活道路のような道を通り、道端で話す主婦たちに遭遇した。道の反対側には、三歳くらいの男の子が、三歳用の車を乗り回している。平日だった。

浅井さんは、言い過ぎであった。私は髪を短く刈り込んでもらった。それまでは長めだったが、前髪が鬱陶しくて仕方なくなった。20歳くらいのときは、もっと長かった。私は、
「浅井さんのような髪型に憧れてます。パーマとかかけたい」
と言った。すると、美容師は
「僕もブランキージェットシティ好きなんです」
と同調してきた。「いちご水」が好きだ、と言った。私は、
「ラストダンスのDVDの方で、「いちご水」やりましたよね? あれの二回目のサビ、コード間違ってません? あれ最高にエロいですよね」
と言った。またエロである。私は中学生にでもなったみたいだ。それで、ブランキージェットシティの話で盛り上がって、私は家に帰った。

私は、このブログを特に友達や家族に教えても構わないと思っているが、私の妻や友達は、あまりまとまった文章を読むタイプではないので、多分教えると、
「面白い」
「すごい」
とか言われそうなので、積極的に教えようとは思わない。しかし、昔べつのサイトをやっていたときには、家で友達にコメントを書かせたりしたこともあった。そのときは文字や写真もあったから、私もだいぶ気が大きかったのである。私の父母は、2人ともかなりの本を読むが、おそらく私の書いたものは読まないだろう。私の薦めたものを、読んだ試しがないのである。それは、私の大きな勘違いかもしれないが、しかし、私も子の親になった。あと何年もしないうちに、娘はTwitterとか、はてなブログを始めるだろう。私は、それを積極的に読もうとは思わない。とても読めるものではない、と決めつけてしまっている。私の親もそんな心境だったのではないか。

お正月に、私は実家に帰った。こういう書き方をすると、私は新幹線か飛行機にでも乗ったかのようであるが、実際は一キロほどしか離れていない。それでも、前ほどはもう行かなくなっている。とにかく、お正月は、行った。弟も帰ってくるからである。弟も別に県外とかではないが、弟は仕事人間なので、正月を逃すともう会えない。それで、私たちは酒も回り、昔話になった。妹は高校時代演劇部で、私は大学から二十代半ばまで、バンドをやっていた。私は、妹が演技した姿を見たことがあったので、そのことを話すと、
「わたしは途中から大道具だった。わたしが舞台に上がっているのを見るのは珍しい」
と言ったので、私は得意になった。ふと、父の表情を盗み見ると、少しうらやましそうである。私は調子に乗って、
「俺がライブやったところは見たことないだろ?」
と話すと、誰もなかった。と思ったら、父は「一度だけある」と言った。

私はそんなこと、すっかり忘れていたが、私は以前一度だけ、父の働く施設で演奏したことがあった。父の同僚が、ドラムをやっていて、私はそれを借りて叩いたのだった。外であった。メンバーはあと2人いたが、ギターとベースだったので、自分の楽器を用意した。アンプも、軽ワゴンに積み込んだ。その日は朝寝坊をして、国道をぶっ飛ばしていったら、速度掲示板に、
「速度超過」
と表示された。とにかくやがて着いた。私たちは、ブルーハーツの「キスしてほしい」をコピーすることになっていた。それ以外は自作の曲だった。キスしてほしいは、テンポが早いから、私の腕はつらかった。私たちは乾いた泥の上で演奏した。道の向こうが藪みたいになっていて、その向こうはゴルフ場だった。私たちは演奏を始めた。2、3曲やって、調子が出てきたら、突然2人の音が消え、私だけになった。おかしい、と思ったら、案の定、父の施設の障害者の人が、コンセントを引っこ抜いてしまったのだ。私たちは、「まあ、そういうこともあるよね」て感じで、演奏を終えた。

家に帰ったあと、父に、
「お前のことうまいって褒めてたよ。大したもんだ、と言ってた」
と言われた。それは、父の感想ではなかった。そう書くと、まるで、私が父の愛に飢えているようで、私は落ち着きを失う。

しかし、飢えているのは、文、字、の、私、に、過、ぎ、な、い。