意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

動物園みたいな文章

高校時代に「るろうに剣心」を読んでいて、ところでいつもこういう話を書いていて迷うことがあって、それは、「「るろうに剣心」と、い、う、漫、画、を読んでいて」にするか、「「るろうに剣心」を読んでいて」のどちらかにするのかという問題だ。(という漫画)、というのをつけるかどうかという話だ。「るろうに剣心」くらいの知名度の漫画なら、付けなくてもいい気がするが、そういうのを全く知らない人もいるかもしれない。だから、付けた方が親切なのかもしれないが、お馴染みの人からしたら、鬱陶しく感じたり、知ったかぶりをされているような気持ちになるかもしれない。しかし、書きながら気が付いてしまったが、付けないのが正解だった。それは、読む人が知っている、いない、関係なく、やはり私の中でお馴染みならば、「るろうに剣心という漫画」とする必要はない。読む人が、登場する固有名詞についてどこまで知っているかは、実はそんなに重要な問題ではない。

たとえば、小説の書き出しで

「太郎は猫の上に馬乗りになっていた。」

というのがあったとして、太郎とはいったい誰なんだ? と突っ込む人はいない。普通の人なら、一文に猫だの馬だの、動物園みたいな文章だなあ、と思うはずだ。しかし、「突っ込む人はいない」なんて書いたが、ほんとうにそうだろうか?

私の妻は、映画を見ているときに突然それまで出てこなかった人物などが出てくると、パニックを起こす。奇想天外な展開になっても同様だ。パニックは言い過ぎだが、(知らないことがある)というストレスに耐えられない。だから、周りに知っている人がいたら、いても立ってもいられなくなって、
「ねえ、今のどういうこと?」
「この人だれ?」
と聞きまくる。私は、妻と結婚する際に結婚式を行い、結婚式で配る紙を、予算削減のために自作したのだが、そこに「相手になおしてほしいところ」というのがあって、私は
「映画を観るときは静かにしてほしい」
と記載した。ちなみに他には宝物とかそういうのがあったので、愛用のスネアドラムの写真を載せ、それと顔写真は子供時代のものを使うことにしたので、私は麦わら帽子をかぶってランニングを着て、大叔母に抱かれている写真を載せた。大叔母は90近いがまだ存命で、今は施設に入っている。その姉である祖母も生きていて、こちらは自分の家にいる。

とにかく、妻は小説とかフィクションというものにあまり慣れていなくて、もちろんドラマなどは見るが、それはやはりご近所をひとまわりして「旅行」と称するような、お馴染み過ぎるフィクションなのである。ところで今思いついたが、すべての小説というのは、途中経過から始まる。小説は読んでいる人のために存在する世界ではなく、初めから存在している。だから、読み始めは、動いている電車に飛び乗るような感じがする。小説を読むことを「小説世界に入る」とか言ったりする。「小説世界が構築される」とは言わない。妻が「知らないストレス」に耐えられないというのは、「なんで動いている電車に飛び乗らなきゃいけないの?」と言っているのと、同じだ。

ところで、祖父母の家は、私の家からは池袋まで行ったらそこから西武線に乗り換えて行く。西武線はホームが5つくらいあって、いったいどれに乗ればいいのか、子供時代の私はその法則性がつかめなくて恐怖をおぼえた。小学校高学年になると、ひとりで行ってみたい気も起こるが、乗り換えのホームがわからなくて母に何番に乗ればいいのか、何度も確認した。私の記憶によるとだいたい2番か3番だった気がする。しかし、それに頼っても確率は半々だ。母は、
「何番でもいいから各駅停車に乗れば着くよ」
と言った。西武線は黄色い電車だった。もう何年も乗っていない。