意味をあたえる

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20150416の夢

義妹夫婦が子供をつれてやってきた。子供は2月に生まれたばかりである。だいぶ人の子らしくなってきた。全体に赤っぽかった皮膚が、白くなっている。この子は色白である、なんて、勝手なことを思う私。子供は男の子である。名前をシュウヤくんと言う。名前はどうでもいい。

シュウヤくんはお湯はじめの日としてやってきた。赤ちゃん本舗で買ってきた、ベビーバスタブが八畳の和室に置かれる。ここは普段義母の寝室となっている。天井からは正方形の蛍光灯の傘が下げられ、壁際には背の高いクローゼットが並べられている。壁は土壁だ。クローゼットは二台あり、茶色い横開きの扉に、ニスが分厚く塗られている。二台の間にはわずかに隙間が空いている。その向こうは偶然襖になっていて、向こう側が覗けるようになっている。いったいどういう構造の家なのか。志津が幼い頃、その間に団扇を通して、パスし合って遊んだ。志津はもう今は中学三年なので、テレビばかり見ている。キスマイフットツーの、北山君がお気に入りだ。

義母が薬缶で沸かしたお湯をバスタブに注いだ。バスタブは白い。白というかクリーム色。バスタブは湯気を立てている。立ち上り、掃き出し窓から差し込む日を浴び、やがて天井に届いた。天井は木目がむき出しになっており、場所によってはそれが人の横顔に見える。

部屋には私とシュウヤくんしかいなかった。シュウヤくんは、紫色の座布団に寝かされていた。座布団は正方形で、赤子は対角線にそって寝かされている。それでは、と私は思い、シュウヤくんを抱き上げた。私はシュウヤくんがいつ生まれたのかを思い出そうとした。3ヶ月経っていれば首も据わるから、脇の下に手を入れ、縦に持ち上げることができる。まだなら横だ。頭と、それから、ここからは人によってさまざまだが、私は股の間に手を入れお尻をサポートする。私は娘二人をこうして抱きかかえたが、今度は男だから、ちんこが腕に当たるかもしれない。そんなことをぼんやり思った。

私は自分の腰に力を入れ、徐々にお湯にシュウヤくんを近づけた。まずは左足を浸した。すると泣き出すシュウヤくん。どうやら熱かったらしい。義母が沸かしすぎたのだ。馬鹿だ。しかし、入れる前にお湯の温度を確かめなかった私も愚かだ。だけれども、こうやってなんでもかんでも自分が悪いと結論づけるのは、精神衛生上良くないので、私は心の中で義母を罵倒し続けることにした。

私は座布団にシュウヤくんを戻した。シュウヤくんは泣いている。
(ヤバいな)
と私は思った。泣き声で義妹夫婦がやってきたら事である。夫婦は真面目な性格で、しかも初めての子だから、火傷なんてさせたら、その場では
「いいですよ」
と言うだろうが、裏で何を言われるかわからない。しかし、夢なので、私は氷などを持ってくるといった発想はなく、なんとなく子供を見下ろしていた。すると、子供は火傷した左足を上に曲げ、自分のほっぺたにくっつけた。ほっぺたが冷たいのだろうか。あるいは、流れでる涙を足の裏に塗りつけて、気化熱で冷まそうとしているのかもしれない。ずいぶん体の柔らかい子だなあと私は思った。

それから、シュウヤくんには姉がひとりいることを私は思い出し、シュウヤくんはまだ0歳児だから、みんなが
「かわいい」
「かわいい」
といってかわいがるから、姉がやきもちを焼くと思って気の毒に感じ、探すことにした。私の義父母や妻はそういうことに頭の回らない人たちなのだ。赤ん坊はまだ自我がないから、かわいがってもあまり意味はない。姉は台所にいたので、私は抱き上げた。台所の床はひんやりとしていた。私は裸足だった。床にもちゃんとニスが塗られている。ところで、私はこの子の名前を知らなかったので焦った。

実は、私たちは大阪まで食事をしにいくことになっていた。それなのに義妹夫婦が来てしまったため、予定の時刻を大幅に過ぎ、私はイライラした。私の父母や祖母もやってくるのである。私の祖母はまだ生きている。祖母は太平洋戦争で東京大空襲も経験しているから、本格的な年寄りだ。祖母は白子が脳みそを連想するから食べられないと言う。祖母は実際の脳みそを見たことがあった。

私は、義妹夫婦も誘ったほうがいい気がしたが、なんのアポもなくやってくるような無神経な人たちだから、誘いたくはなく、
「予約したときに人数言っちゃったから、ごめん」
と言って、誘わないことにした。向こうからしたら、最初から行く気はなかったかもしれない。赤ちゃんもいるし。シュウヤくんの火傷は、だいぶ良くなっていた。しかし、足の裏は冷やしたから良かったが、甲の方は痕が残っている。私はバレていないので、黙っていることにした。もう時間も迫っているので、お湯はじめは、三人で勝手にやってもらうことにする。祖母が夫婦に、
「ごめんなさいねー」
と嫌みっぽく言った。

それから大阪に行って私たちは食事をして帰ってきた。地下鉄から地上に出ると、私は一人きりになっていた。私は家まで歩いて帰ることにした。すると、私の後ろから、一組の夫婦が追い抜いていき、それは友達の夫婦だった。友達は最近結婚した。結婚式はこれからだ。招待状を送るから、住所を教えてとLINEが来た。なぜLINEで日時と場所を言わないのか。私と妻が招待された。妻は行きたくないと言う。それは、祝儀で五万円包まなければならないからだ。

友達夫婦の家は駅のすぐそばにあり、てっきり私は家に招待され、飲んだりするものかと思ったが、友達はひとこと二言言うと、家の中に入ってしまった。家は平屋だった。私が子供の頃、そこには大木という代表取締役の男が住んでいた。表札にそう書いてあったのである。その前にも家はあり、私はあるとき自転車で家の前を通ると、ひとりの男が車から出て玄関へ向かって歩き、出迎えたのも男だったが、いきなり殴り合いを始めた。二人は兄弟だった。私は怖くなってその場から離れた。その少しあとに大木という男が住み、私と友達は「たいぼくさん」と読んだ。友達というのは、結婚した人のことではない。

家に招待されなかった私は、大阪の食事に誘わなかったことを根に持っているんだな、と思った。私は義妹夫婦と、友達夫婦をごっちゃにしていた。仕方なく私は家に向かって歩き出した。ほどなく、私は自分の住む家ではなく、実家に向かっていることに気づいたが、もう周りも暗くて心細いので、とりあえず実家を目指すことにした。実家と家はそれほど離れていないから、どちらに行ってもいいのだ。しかし、家の場所がよくわからない。どうも私が歩いているのは、左右が反転しているようだ。実家は、本来左に曲がったところにあるはずたが、このまま行くと右に曲がってしまう。しかし、私は左右が反転していることを自覚していたので問題なく到着するだろうと思い、歩をゆるめることはしなかった。私は舗装はされているが、比較的寂しい道を歩いていた。その道は、私が高校生の頃までは砂利道で、一車線の幅しかなかった。砂利道は雨が降ると水たまりができるので、雨上がりは注意して歩かなければならなかった。あまり道路がボコボコしすぎると、どこからか運ばれてきた砂利が、穴をふさいだ。新しい砂利は青っぽい灰色をしていた。ジーンズのような色だった。元の砂利は白っぽいので、新しいのはとても目立った。青っぽい砂利はやがて白っぽくなって、どこかへ流れ、また同じところに水たまりができた。

私は桑畑と雑木林に挟まれた道を歩いていた。自動販売機があった。白くて細長く、缶コーヒーしか売ってなかった。私は缶コーヒーが飲めないから、そのまま通り過ぎた。自動販売機の向こうはお墓があった。田舎なので、自分の土地に墓を建てる人もいるのだ。墓の周りは畑である。畑にはまだ何も植えられていない。その向こうも墓だった。向かい側も墓になった。どれも古い墓だった。直方体の角が削れて丸っこくなっている。灯籠の形をしたものもあった。私はおかしいと思った。いくら何でもこんなに墓ばかりではなかった。そう思ったとたん、いきなり体が重くなった。いけない、余計なものを背負いこんでしまった、と思った。しかし、これは、私の恐怖がそうさせているだけなんだ、と私は解釈した。だから私は地道に実家を目指した。

さらに行くと、真ん中でへし折れた墓石もあった。さすがにこれはヤバいなあと思ったが、やはりこれも私の恐怖がそう見せているんだと思い、平常心を装った。

私の歩いている道の左側は、土地が下がっていて、そのため、歩いている最中にも、何度か下り坂があった。ようやく実家の前までくると、実家の前にも坂はあり、私は突然、坂を下ればやがて家にたどり着くことを思い出した。私はそのまま下ろうと思ったが、やはりおかしいことに気づいた。実家の前には坂などないのである。私は引き返して実家の扉を開け、実家なのでチャイムも鳴らさずにどかどかと入って行った。母がいたので坂道のことを訊くと、
「それはネギシさんの家だよ。門と坂を見間違えたんだよ」
と教えてくれた。ネギシさんの家は長い塀があって、立派な門構えをしている。塀の向こうには立派な松が生えているのが見える。そこはちょっとした庭園のようになっていて、私は子供時代、無断でよくそこへ忍び込んだ。

私は塀に憧れている子供だった。というのも、私の父は大の塀嫌いで、私の家は遠くからでも丸見えだったのである。しかし柵は何度か建てたことはあり、しかしそれは手作りの木に縄を張っただけの簡素なもので、私がぶら下がると、すぐに壊れた。

ようやく実家に着いた私は、電話を借りて妻に電話をかけた。しかし、妻は出なかった。私は風呂にでも入っているのだろうと思った。電話は台所の食器棚の上の段と下の段の間のスペースにあった。上の段の扉にはずいぶん古い連絡網が貼ってあり、それは私が小学六年のころのものであった。紙全体が焦げたような色になっており、紙を固定するセロハンテープは端がぼろぼろになっている。書かれている電話番号は全角の数字で、数字同士が不自然に離れている。市外局番は省略されているが、担任のものだけ付けられている。担任は違う町に住んでいた。担任は毎朝橋を渡ってやってくる。

私は連絡網から自分の名前を見つけだそうとしたが、いくら探してもなかった。