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意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

最近よくする話

昨夜は大学時代の友人と飲みに行った。早い時間だったので私たちはカウンターに座り、まだ私たち以外に客はなく、はす向かいの男は最初客かなーと思ったら、やはり店の主人だった。彼はさやえんどうのさやを取っていたのだが、私の席からは手元が見えなかった。店のスタッフは三人おり、店主夫婦とアルバイトの女の子で、女の子は背が高くてモデル体型だが、私の好みの顔ではなかった。私は、カウンターに座ってさけを飲む経験がほとんどなかったので、彼女の手際を眺めるのが楽しかった。焼酎の瓶が逆さまに固定され、先のキャップを絞るとちょうどいい量の酒がコップに注がれ、そこに水だのウーロン茶だのを足して、出来上がり。濃いだの薄いだの、間違える心配はない。隣では店主がうどんを茹でていて、それを水であらってざるにあけ、ざっざっと、水を切る。飛び散った水は女の子のジーンズに染み込まれていく。アスパラガスがうまかった。

ところで、一昨日にまた三丁目の夕日がテレビで放送されていて、私は一作目だけ見たのだが、それとは関係なく人には話してしまう話がある。それは、保坂和志がどこかで書いていたことなのだが、ラストで堤真一がだれかを電車で見送ったあとに、東京タワーを見ると、そこに夕日がかかっていて、観る人の感動を誘うシーンがある。しかし、見送った線路が○○線の△△駅だと考えると、方向的に東京タワーと夕日が重なることは有り得ない、というのである。三丁目の夕日はフィクションであるから、その場面だけ東京タワーの位置や、または地球の時点の向きが変わっても、別に支障はないのだが、保坂和志はそれは許されないことだ、と随分批判していた。

私がその話を友人にすると、友人は鉄道好きだから、鉄道好きとしてはどう思うか? という切り口で訊いたのだが、
「特に問題はない」
と言われた。そして、東京にはかつて30いくつの都電があったが、今では都電荒川線しかなくなり、どうしてそうなったのか、理由を教えてくれた。都電荒川線だけは、ほとんど道路に沿って走ってなかったかららしい。都電荒川線が、道路に沿っていたのは、全体の一割程度であり、その一割がどこにあるのかを、見に行くのが、鉄道マニアの楽しみだそうです。

一方の保坂和志は、私は最近「未明の闘争」を読んでいるが、その最初の方の場面で池袋のびっくりガードが出てきて、私は昔その近辺で働いていたから、読んでいて愉快だったが、保坂和志も働いていたから、かなり細かく描写されている。それで、ガードをくぐって坂をのぼると五叉路があり、そこの信号が一斉に青になって人々が歩き出す、とあるのだが、実はそれは嘘なのである。

校正の人が
「あそこの五叉路がぜんぶ青になることはありません」
と指摘すると、
「そういうのは、どっちでもいいんだ」
と怒り、そのまま直さずに未明の闘争に載ったので、私が読んでいても、信号はいっせいに青になる。「怒る」というのは、私の文字の勢いでそう書いてしまったが、実際には怒ってはいないだろう。私はその話をYouTubeで本人の口から聞いた。

しかし、前述の三丁目の夕日の東京タワーと、五叉路の話を並べると、矛盾していないか、と思ってしまう。私は別に矛盾していてもいいじゃないか、と思う。三丁目と五叉路がどちらが先に話したか、または同時なのかは知らないが、やっぱり嘘はいけない、OK、と自分の考えがコロコロ変わっても、私はいいと思う。

だけれども、実際はこのことは矛盾していない、とも思える。保坂和志は、事実との相違を、安易に感動に利用したことについて批判していた、からである。からである、と言っても、私の記憶と認識の中の話だから、実際にそれについて書いているところを探そうと思い、検索してみたら、下記のページにヒットした。

遠い触覚 第三回

残念ながら、三丁目の夕日は出てくるが、違う話だった。私は、大変細かい字だったが、がんばって読んだら「マルホランド・ドライブ」が観たくなった。マルホランド・ドライブで印象的なのは、ナオミ・ワッツがものすごい勢いで自慰にふけっている場面だ。私は男だからわからないが、そんなに擦ったら痛いんじゃないか、と痛々しい気持ちになった。まあ、そういう場面だから、痛いのだろうが。

話を村上春樹に変えるが、村上春樹のデビュー作で、フィアットだか、ビートルが公園の木に突っ込む場面があるが、それを読んだある読者が、
「ビートルには○○はついてないですよ」
と指摘した。○○とは、自動車の部品で村上春樹はそのことを知らなかったのである。しかしそれに対し村上春樹は、
「この小説は、ビートルに○○が付いている世界を舞台にした話です」
と返していて、私は目から鱗が落ちた。同じ風に思った読者はたくさんいたようで、それから以前の村上春樹の質問サイトでも、
「私も△△のない世界にどうこう」
という言い回しを何度か目にした。

しかし、それから時が流れて「海辺のカフカ」が出たときの質問では、読者が
高知県には××はありませんよ」
と指摘すると村上春樹は、
「ありがとうございます、修正します」
と、あっさり認め、おそらか次の版からは、その記述は削られたのである。これが心境の変化なのか、若いときは単に意地を張っていただけなのか、読者が真似するのが鬱陶しかったのかは、わからないが、フィクションは難しい。