意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

満蔵さんのブログが休止されて残念だ

私は、満蔵さんのブログの写真を見て思ったことなどを、一度か二度記事にしたように思う。私は実のところ写真全般について、全く興味がない。興味がない、というのは、
「センスがない」
「才能がない」
という卑怯な言い回しを排除した結果、そういう言い方になったという話である。

満蔵さんの写真には、小説のような楽しみがある。正確には写真の並び、である。タイトルがあって、最初の1、2枚目までは、その相関関係を頭の中で組み立てることができる。しかし3枚目4枚目となってくると、1、2枚目で作り上げた公式が通用しなくなって、その都度立ち止まって解釈をしなければならなくなる。ところで、「枚目」と打とうとする度に「マイメロディ」が第一変換候補に出てきて鬱陶しい。満蔵さんはかなりのマイメロディマニアなのかもしれない。

解釈、という行為が実に馬鹿らしい。まるで自分に従わせるような、力ずくの響きがこの言葉にはある。だから、解釈、という言葉を経由せずに、どちらかと言えば見ているこちらが解釈されるように促さなければならないのに、いつもいつも、必ず一度は解釈しようとするのはなぜなのか。

「ラストダンス」と題された最後の写真が鎖なのは、どこか切羽詰まった感じがする。それはたまたまシキミが読んでいた本、(題名は失念したが子供のどうして? に答える系の本)で、死の比喩として鎖を使っていたことが、影響しているのだろう。

しかし、私は自分で写真を取らないから知らないけども、例えばこの鎖の写真とは
「ラストダンスという記事を書こうと思い、鎖の写真が必要だ。ちょっと近くの鉄工所まで撮りに行こう」
という具合に撮られたものではなく。予め撮られた写真の中から、今回の記事に相応しいものとして採用されたのだろう。そうすると、鎖は死の象徴ではなく、鎖は鎖でしかない。