意味をあたえる

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「思う」を語尾につけないと自信のなさが透ける

少し前にどこかのブログで文章講座みたいなのをやっていて、そこに、
「語尾に「思う」をつけるとなんたら」
とあって、「なんたら」の中身は忘れたが、マイナスなことで、要は語尾に「思う」をつけなさんな、という主張だったが、これは正しい。正しいが、古い。そのとき私は
「ダメだというから、つけるんだよ」
と反抗的なコメントを残したが、これは今思うと、正しい理由ではなかった。正しい理由について、以下に書きたい。

目次:1.私が語尾に「思う」をつける、に対して思うこと云々


1.今日なんとなく読んだことのないブログを読んでいたら、意識の高い、おそらく若い人が書いたと思われるブログであった。若いは私の主観である。その文章がいわゆる「思う」を使わない文で構成されており、私はそれを読んで、筆者がとても背伸びをしながら書いているような印象を持った。断定的は、ときに挑発的であり、そのことにビクビクしているようだった。私は誰が一体彼に、「思うを使いなさんな」とアドバイスしたのか、とても気の毒な思いがした。文末に「思う」をつけるな、というのは実は順番が逆で、「思う」をつけなければ書けないようなことは書くな、が正解である。だから、自信のあることや、どうしても主張せざるをえないこと以外は、書いてはいけないのである。だから、書くことなんて、今すぐやめよう。

つまり、正解を求める書き方は、いずれ破綻して後が続かなくなってしまう。書くことを「表現」ととらえるなら、多くのルールは足枷にしかならない。「思うを語尾につけるな」と言われて安心してはならない。むしろ警戒せねばならない。いや、もしかしたらヒントか。私はオリジナリティを求める。表現とオリジナリティが、どこまで同一になるかはわからないが、私は他の人と同じようには書きたくない。だとしたら、「思う」をつけるのは正解だ。また正解、て言ってしまった。正解、不正解、という思考にからめ取られてはいけない。もっとシンプルに考えよう。「思う」をつけるべき文には付け、つけないべき文には付けない。では、どういうときが「べき」なのか。そんなのわからない。それがインスピレーションとか直感とか、そういうのだろう。

インスピレーションとは、あるいは、内面である。文章は、自分をさらけ出す作業である。文章にかぎらないが。フィクションを書いても、装って書いても、自分が出る。以下はなんの根拠もない、私が今勝手にでっちあげた格言だが、
「人は、自分の書いた文章は、たとえどんな形で現れても即座に気づく」
のである。私は私から逃れることができない。それならば、大人しく「私」に従うべきである。古いJ-POPの歌詞に
「自分を偽ることができない」
とあるが、私はたぶんそれを中学生のときから耳にしていて、当たり前だし、簡単なことのように捉えていたが、それでも人は皆偽っている。私も偽っている。偽っている、というか、
「偽らざること、なんと困難なことよ!」
と心の中で叫んだ。偽らないためには、悟りが必要なようだ、ということも、同時に悟った。つまり、私にとって書く行為は、悟りを求める行為なのかもしれない。

よく、「私は大した経験もしてこなかったから、書くことがありません」という人がいるが、そういう人は人の内面をナメている。いまだかつて、自分の内面を完全に把握した人はいないのである。だから、全体の1000分の1か一億分の1かは知らないが、その内面を感じたり、あるいは感じようと意識すれば、
「書くことがない」
という事態にはならないのである。書くことがありません、あるいは書くことができない、というのは、単に書くことに見放されてしまっただけである。見放されないためにはどうすればいいか? わからない。私だって、毎日おっかなびっくり書いている。しかし、なんらかのリスペクトや奉仕は必要だろう。だからといって、携帯の画面に向かって頭を下げるとか、そういう表面的な、というかストレオタイプ的なことをしてしまうと、逆効果で、だから、書くという行為はならかの定義をあたえていく作業なのかもしれない。

ここまで読んで、じゃあそうやって書いたら人気者になれるんですか? とかお金が稼げるんですか? とか訊かれても、私はわからない、としか言いようがない。ただ、私は他の人と同じように書きたくない、というだけなのである。


※小説「余生」第6話を更新しました。
余生(6) - 余生