意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

自分がブログに書く内容を「ネタ」と呼ぶことに抵抗がある

少し前から表題のようなことを考えていて、それはなぜ故か、と根拠を求めようとしたが、特に出てこないので、出てこないまま書き進める。

「ネタ」と自己検索したときに一番にでるのは、「お笑いネタ」というもので、これは芸人の出し物である。ブログに書く内容とお笑いネタの違いとは、リアルタイムかどうかの違いというか、でも私は割とリアルタイムで書いている方だと思う。それはいいとして、私はブログに書く内容とお笑いネタに、大した差はなく、ましてやどちらが上で下かみたいなランク付けをするつもりがないと言いたい。

その次に思いつくのは「寿司ネタ」という言葉で、これはお寿司の上に乗っかってるやつですね? そう考えるとブログに書くことはネタも酢飯も全部ひっくるめた完成品であるから、「ネタ」と呼ぶとご飯のない記事になるから、「ネタ」と呼ぶことに抵抗がある、と私は考えているのかもしれない。しかし、(前文に対する否定的な意見。考えるのが面倒だから省略)だから、寿司ネタもブログも大差はない。

今、トイレに行きたくなってこの記事をいったん下書き保存し、私は今日は仕事だったから会社のトイレに行った。トイレの床はリノリウムである。そこでオシッコをしたのだが、土曜日だったからあまり人はおらず誰にも遭遇しなかった。他の部署の人に会うと私は
「お疲れさまです」
なんて言って、天気の話とか、あと大して顔なんか見てもいないのに
「疲れたまってない? 大丈夫?」
なんて言ったりする。今はすげーフランクに言ってしまったが、年上の人には敬語を使います。この記事は別に「年上の人にも思い切ってタメ口で話しかけよう。年功序列が崩壊した今、ただ年上というだけで役職が上でもない人に敬語を使うのはリソースのむだ遣い!!」というビジネスハック記事ではない。

トイレから戻って再度この記事を声に出して読んだら、私はだんだんと、単にお笑い芸人を侮辱したいために書き出したのではないか、という気持ちになった。私の文章は、そういう低俗なものとは無縁なのだと言いたげである。私が他の人のブログで「ネタ」という言葉を目にするのは主に、
「書くネタがない」
「書くネタはあるが書く気が起きない」
という類の組み合わせで、それを読むと私は「それ見たことか」という気持ちになる。やはりまずは「ネタ」という言い回しをやめるべきだ、とアドバイスしたくなってしまう。しかし冒頭で述べたとおり、そう主張するに至る根拠がないので、実際は黙っている。

話は変わるが、会社の先輩が、
松本人志のクレイジージャーニーおもしろいよ」
と勧めてくるので、録画して見ることにした。最初に言われたのが一昨日の話で、「遅い時間」というから一昨日の深夜かと思ったら、昨日の深夜だった。深夜放送というのは今日と明日の区別が曖昧になるから、先輩も勘違いしたのかと思い、昨日
「今日なんですね?」
と確認したら
「今日だよ」
と言われた。それならば何故、昨日に勧めてこないのだろうか。「今日の夜」と言う方が、ずっとスマートである。実は昨日は先輩が、風邪をひいて休みだったから言えなかったのである。夏風邪である。毎晩蒸し暑くて、つい網戸で寝たら体が冷えてしまったのである。
「喉が痛い」
と言ったので、私は
「喉からくる人は?」
と振ったら
「銀のパブロン
と答えたから大丈夫だろうと思ったらダメだった。もしかしたらサボリかもしれない。しかしそれならば、「今日だよ」と教えてくれたのは誰なのだろうか。

クレイジージャーニーは、廃虚特集で、私は廃虚がけっこう好きだから、前の回も見たかったなーと思った。前会社にいた派遣の男がかなりの派遣好きで、実際に現地に赴くタイプだったので、私は彼と仲良くなれば、そういう場所に一緒に行けるなあ、と期待していた。しかも彼は後輩だから、いざ一緒に行ったとしても、私がひとりで屋内に入ったとたんに柱を蹴りでへし折って私を生き埋めにして笑い転げる、というようなこともしないだろうから安心だった。しかし仲良くなる前に彼は会社を去った。私としては結構仲のよいつもりだったが、そうではなかった。知らぬ間に生き埋めにしたのは、どうやら私のほうだったのかもしれない。だから私はまだ廃虚のような場所に足を踏み入れたことはない。

番組は最初ベルギーの冷却塔というところへ行き、そこは大きなサイロのような建物で、
幾何学模様がすごい」
などと、現地の人やスタジオの人がため息をもらしたが、私にはあまり伝わらなかった。「たしかにすごそうだ」というのが私の実感だった。おそらくそれは巨大だからすごいのであって、私の家のテレビは小さいから、テレビに映るものは、テレビよりも小さいものに限られるから、廃虚も小さく見えてしまう。テレビは客観的に物を映すが、そこで私は「客観も誰かの主観にすぎない」という名言っぽい文句を思いついた。朝の話である。テレビは途中で切り上げて、それからシキミの上履きを洗った。天気が読めないから、早めに洗わないと乾かないと判断したのである。

ところで冷却塔のてっぺんには丸い穴が開いていて、それは蒸気を逃がすための穴だが、今は使われていないので、穴の中で雲が流れていた。私はそれを見て、村上春樹の「ねじ巻き鳥クロニクル」という小説で、主人公が自ら涸れ井戸の底に降りて、夜空を見上げる、というシーンがあるが、それに近いな、と私は思った。ただし村上春樹の井戸の方は半分蓋がされていて、
「半月のようだ」
の書かれていた気がする。やがて笠原メイの手によって蓋は全部閉じられ、縄も引き上げられてしまうのである。