意味をあたえる

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目標は継続の足枷か

今朝読んだりして思ったことを書こうと思うが、まずは過去の話をさせてください。

私は高校時代の後半から熱心に小説を書いていて、おそらく高二の10月から月ひとつの短編を書いて友達に読ませていた。読ませていた、とさらりと書いたが私は初めて
「ちょっと小説書いてみたんだけど、読んでくんない?」
と声をかけたときはとても緊張したし、その緊張感は今でも残っている。たかがルーズリーフ2、3枚の話だった。彼はそれを次の世界史の時間に読んだ。私は彼よりも後ろの席だったので、読んでいる彼の背中が丸見えであり、背中と机からはみ出たバインダーを交互に注視していた。

彼はとてもいい奴だったので、次の休み時間に、つまらなかった部分を列挙し、今度はもっと面白く書いて持って来いと言った。私は卒業まで書き続けることができた。

高三になると、私の高校では卒業制作みたいな行事があるので、各自が何かをつくることになっていた。すると、私の小説の噂を聞きつけた新しい友人が、
「弓岡、小説やらないか? 俺はこの前「耳をすませば」を観て、小説を書きたくなったんだ」
と言ってきた。私は「耳をすませば」を観ても特に書きたい気は起きなかったし、「耳をすませば」は、先に原作を読んでいた。私の母と妹が柊あおいのファンであり、私も隠れファンだったのである。原作では主人公とお姉ちゃんがひとり一部屋の家に住んでいたが、映画では二段ベッドになっている。宮崎駿が、
「姉妹がひとり一部屋なんて、ちっともリアルではない。しかし、少女マンガで主人公が二段ベッドで寝ていたら、誰も読まない。それが映画と少女マンガの違い」
と、言っていた。これは私の記憶による意訳である。何にせよ、「耳をすませば」で覚えているのはこれくらいである。

とにかく私は卒業制作のために小説を書き、それから何人か声をかけて同人誌みたいな体裁にした。卒業制作はいちおうコンクールの形式をしており、上位は表彰もされた。私は当時はとても生意気だったから、当然一位になるのだろうと思ったが、実際は二位だった。二位は「奨励賞」という名目で、マンガの新人賞でいう「次点」みたいな扱いだった。その下には優秀賞だか努力賞があり、それは5組10組が受賞していた。奨励賞は一組しか与えられなかったので、「2位タイ」ではなく正真正銘の2位だった。しかし私は納得できなかったので、顧問の女の国語教師に、
「納得できません」
と言いに、職員室に行った。たしか卒業式の日で、室内にはストーブが焚かれていた。もう春がすぐそばまで来ていたので、室内は暑いくらいだった。私の文句に教師は爆笑し、
「弓岡らしいわね」
と言った。私は生涯でかなりの回数「弓岡らしい」と言われたが、これは比較的気分のいい部類だった。そして最優秀賞の作品と私たちのものの、どこが違うかを丁寧に解説してくれた。奇しくも最優秀賞も小説であり、しかも同じクラスの話もしたことがないような女子が書いたものであった。「話もしたことがない」と言うと、その女子が相当内向的な印象を与えるが、私は当時のクラスでは8人くらいの生徒としか口をきかなかず、8人は全員男だったので、クラス内には私の名前も言えない女子がいた。だから、最優秀賞の女子は実は社交的な性格なのかもしれないが、やはり小説をかくのだから同じ穴の狢だろう。

それで、クラスには担任の発行するクラス通信があり、その最終号は卒業式当日に配られたが、そのときには私たちの表彰も済んでいたので、新聞で言えば一面のぶぶんに、私たちのことが書かれるだろうと思ったが、実際は3年間皆勤賞の生徒がいて、その女子のことが大々的に取り上げられていたので私は愕然とした。それは、担任が書いたときにはまだ私たちの結果が出ていなかった、というような理由ではなく、その証拠に私たちのことも、非常に小さな文字で紹介された。私たちは奨励賞で2位だから、小さかったのである。「快挙」と書かれたが、その文字も当然小さい。

担任は日本史の教師であるから、そういう価値のわからない馬鹿なんだろう、と当時は思った。年齢もかなり行っていて、定年も間近だったから「三年間休まず」というのにシンパシーを感じたのである。が、話はいきなり戻るが、「継続は力なり」と、私たちは軽々しく口にするが、その「力」について、私たちは案外軽んじてはいないだろうか。

「最後まで続けていた人が勝ち」みたいな文句を、あるとき私は見かけたが、例えば目標という言葉があって、それは「いついつまで」のように期限を切ると効果的、なんて書かれるが、そのいついつが訪れてしまったら、そのあとはどうすればいいのだろうか。次の目標を設定する、が模範解答だろうが、次がうまく見つからなかった場合、継続はそこで途切れる。実際途切れるかはその人次第だろうが、何も次の目標がないのなら、そのジャンルは見切って、新しいのに移る方が効率的ではないだろうか。逆に言えば、そもそも目標なんかないほうが、継続させるためには効果的なのではないだろうか。荷物が少ない方が疲れずに遠くまで行くことができ、その荷物には目標も含まれるのである。

「目標」の中には「長続きさせる」というものも含まれ、だから「○年間欠かさず続ける」と決めてしまうよりも、「半年後はわからない」というほうが、結果的に長続きする。あくまで印象だが。

それとこれはこぼれ話だが、私の小説を読んでくれた彼もほぼ三年間皆勤だったが、卒業が目前に迫ったある日
「皆勤賞なんて恥ずかしい」
と言って学校を休み、自動車教習所の申し込みに行った。私が免許をとったのは、ハタチを過ぎてからである。


※小説「余生」第16話公開しました。
余生(16) - 意味を喪う