意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

馴れ合いが新たな書き手を生み出す

最近このブログサービス界隈で、とある話題のキーワードのもとに集まった人々のブログが、一種のコミュニティを形成して内部で馴れ合ってて気持ち悪い、という話をたびたび耳にする。流行りなのである。私は昨夜Twitterで、「馴れ合い」について、ややネガティブなことを書いたが、一晩経ったら表題のような考えに至ったので、以下にそれについて書く。

私は一年くらい前に、このブログを始めたが、最初の3ヶ月は読者はひとりしかおらず、星は週に一度、ブックマークは月に一度程度しか付かなかった。例えばそういう風に書くと長続きさせるために足腰を鍛えていた、と、とられそうだが単にブックマークとか読者登録とか、そういう機能を知らなかっただけである。書く行為で鍛えられるのは決して足腰でないことも言っておきたい。私は自分で書きながら
「おもしろいなあ」
と思っていたから、自然とアクセス数も増えるものだと思っていたが、いくら書いてもよくて日に10くらいだった。平均5くらいだった。やはり、例えばなんとかベンチャー企業の社長、みたいな肩書きだったり、あとは検索の上位に表示させる知識やテクニックがないと、誰の目にもとまらないのである。なので、やがてそういうことに気づいた私は、なるべく読者になってくれそうな人、星をくれそうな人を中心に読者登録していくことにしたのである。これらは突き詰めれば、すべて売名行為である。やがて、私のブログには星がつき、たまにはコメントも寄せられるようになった。星、については色々なデメリットや、考え方があることを、そのあと色んなブログを読んで知ったが、やはり最初の頃のことを思い出すと、今のところ外そうという気にはならない。
「明らかに読んでないのに星をつけている人がいて腹が立つ」
という意見もあり、私も首肯するぶぶんもあるが、一歩引いて考えてみると、そんなルールはそもそもなく、勝手に「星は読んだら付ける」というものだと思い込み、腹が立ったりするのは、その考えを相手に押しつけているからである。星をつけるためには、少なくともページを表示させ、アクセスを1増やしているわけだから、
「星はアクセスしたことのアピール」
という風に解釈すれば、なんらおかしいことはない。それに読まれなかったのは、単に筆力がなかっただけで、相手は何も悪くない。私は少なくとも星は記事に目を通してからつけるが、購読しているブログの中には、書いている人自身を応援したくて、ただページを表示する、というものもある。

私は上記のことをすべて「馴れ合い」と言いたいわけで、上記のような行為を少しでもしたことがある人が、「馴れ合いは気持ち悪い」と言ったら、それは田舎者をバカにする東京人の実家が田舎だった、というのと同じ滑稽さを感じる。だから、私はそのコミュニティの気持ち悪さは実際に目にしていないからわからないが、例えば誰かの記事をパクったり、ひどい中傷をしたりのような実害を出さない限りは、擁護したいと思っている。

流行りのキーワードはやがて廃れ、それにともなってコミュニティ内もどす黒い感情が入り乱れて人々はばらばらになっていく。今現在馴れ合っている人たちの未来は知らないが、私は何度かそういうのを目にしたから、やがて同じ結末を迎えると私は予測する。しかし、そうやって傷ついた人たちが、全て書く行為をやめるわけではなく、何人かはまたアカウントを変えたりして書き続け、そうすればいつかは私のブログにもたどり着くのかもしれない。私は別に書いている人向けに書いているわけではなく、幼稚園児から年寄りまで、すべての人が心打たれるものを書こうと心がけているから、それはどっちでもいいのだが、書いている人がひとりでも増えていくのは嬉しい。それは、マイナーなスポーツの競技人口が増えるのと同じことだ。確率問題で、人数が増えればとんでもない書き手が現れやすくなる。そうしたら、私はその人の文章を夢中になって読み、思考を重ねて文字を綴るだろう。その人の影響を受けるだろう。だからつまり、誰かが新しく書き始めたら、私はその時点で影響を受けている。

話は変わるが、少し前から短歌を書いて投稿している。購読しているブログの記事に、ある日短歌が詠まれていて、それを見た瞬間
「俺にもできそうだ」
と思い、書いたら書けたのである。「俺にもできそう」と書くとバカにしているみたいだが、書いたその人よりも、短歌そのものが、その瞬間普段よりも小さく見え、自分の中にすっぽりおさまりそうに感じたのだ。征服できそうな感じ、と言ってもいい。

それで私の投稿したものに対するコメントの中に、
「楽しそう」とか
「おもしろそう」
とかあって、そのあとにその人自身も参加していたりして、私はそのとき、その人も
「自分にも書けそう」
と感じたんじゃないかと思い、嬉しくなった。

私は全くの素人で参加をしたから、一応ウィキペディアなどを読んだりしたが、最初のうちは主催者の方に
「ここはこうしてください」
等の指摘もされた。それでも懲りずに書いていたら、最近は褒められるようになったのでうれしい。コメントの中には、
「これはルールを逸脱していて云々」
みたいな批判的なものもあったが、それは私が故意にめちゃくちゃに書いて、真面目に取り組む人を馬鹿にしている、あるいは注目を集めようとしている、というニュアンスだった。しかし私は一応主催者の注意書きは読んだし、前述のとおり、ネットでも調べた。だから、それでもおかしなところがあるのなら、単に私の読解力とかそういうのが足りないだけだが、それでも私にはああいう風にしか書けなかった。

たぶんその人の考えとしては、もっときちんと勉強をし、他の人の作品もちゃんと目を通してから参加すべき、というのがあったんじゃないだろうか。短歌のコーナーが始まってから、実にたくさんの人が短歌についての本を読み、それをブログで報告していることに、私はとても驚いた。もちろんそれは全く非の打ち所のない、極めて健全な姿勢だ。しかし、一方で全くの軽い気持ちで、最初の衝動だけでわき目もふらず書き続ける人も、同じように健全だと思う。どちらが正しいとかポピュラーとかそういう話ではなく、自分の気の済むようにやればいいだけの話だ。

最後に、私はこのブログサービスの古参のユーザーではないので、馴れ合いによって、このブログサービスが衰退するかどうかについては意見を持たない。


※小説「余生」第23話を公開しました。
余生(23) - 意味を喪う