意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

死ぬ勇気

今朝、テレビでイジメ自殺のことをやっていて、それを見た妻が、
「電車に飛び込むって勇気があるなあ」
と言っていたので、それは違うんじゃない? と思ったので指摘した。もちろんやんわりと、である。しかし私はそういう部分でムキになってしまうところとあるから、案外やんわりでもなかったかもしれない。死ぬというのは、勇気と真逆の行為である、と私は考えている。私はつらいからテレビは見ていない。

だけど「勇気と真逆の行為」という言い回しは、字面はカッコいいが、なんか中身がないような言葉で、そのあと私はひとりで中身について考えた。私はいつもひとりで考えている。

私は十代終わり頃に、毎日
「死にたいなー」
と思っていた時期があって、そのときに、じゃあ死んでみるか、と自殺を検討してみたことがある。しかし具体的な場所や方法について詰めていくと、
「これは無理だ」
という感じになってやめた。それ以来「死にたい」とは思っても、自分の中で、
「どうせ死ねないでしょ?」
冷静に突っ込みを入れる自分がいて、だんだんと思わなくなった。それでもしんどいときはしんどいので、そういうときは「死んだ方がマシ」とは思うようになった。これには自己突っ込みは入らない。だから、死にたいと思っている人は、一度自殺を検討してみるといいですよ、と気軽にオススメできないのが生き死にの難しいところである。難しい、というのは実際に死なれたら困る、という意味合いで、そうすると私はやはり死ぬのも勇気、と思っているのかもしれない。

イジメについては、イジメをなくそうとするよりも、相手を死なさない精神的に追い詰めないためにはどうするかを教える、あるいは考える方がよほど効果的だと思う。具体的だし、「これはイジメじゃない」という逃げ道をふさぐことができるからである。イジメかそうでないかを議論しているうちに手遅れになってしまうこともある。例えば私たちは
「相手の立場に立って考えましょう」
とか
「自分がやられて嫌なことは他人にしないようにしましょう」
とか、
「他人に迷惑かけない上での自由だ」
とか、散々言われて育てられたが、つい先日、下の娘の授業参観があって見に行ったのだが、下の娘は小学2年である。その2年生の授業が道徳で、相変わらず、気持ち、気持ち、気持ちの連続であった。児童は1時間かけてキリンさんやゾウくんの気持ちを考えるのである。そうやって繰り返して、私たちは他人の気持ちはバッチリだし、自分の嫌なことさえやらなければ、迷惑にはならないと考えるが、それはただの勘違いなのである。傲慢さでもある。そういうことではなく、他人と自分は違うし、他人の気持ちは完全に把握するのはどうやったって無理なのだから、気持ちはほどほどにして、単純に死なせない、追い詰めない、という部分に絞って教育でもなんでもしたほうがいい。


※小説「余生」第30話を公開しました。
余生(30) - 余生