意味をあたえる

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どうしてブログはまとめられてしまうのか

たくさんのブログを読んでいます。待ち遠しい気持ちで読むものもあれば、惰性で読むものもあります。読まないものもあります。私は、購読通知に出てくるものを読むのが基本スタイルだが、その数が少しずつ減っていって寂しい。更新されなくなったブログの中には、かなり魅力的な文を書くものもあったので、残念だ。

話は大きく変わるが、ブログを読んでいると、多くのブログの最後のほうに「まとめ」というのがあって、それが理解できない。まとめ、というのはそこまで書かれたものが凝縮されたというか、要約されたものであるから、上記の内容より新しい内容は書かれていないと考えるのが妥当だから、読まない、とまではいかないが、「まとめ」と見えてしまうと、それ以降身を入れて読めなくなる。気を抜いてしまう。

どうしてブログにはこんなにたくさんのまとめがあるのだろうと不思議に思っていたら、最近そういうのはアクセスアップのテクニックですよ、というのをいくつかの記事で知り、つまり任意の単語を繰り返すために、最後にもう一度持ってくるために、まとめ、をやるらしい。「任意の単語」をたくさん記事内に入れると、検索順位が上がるらしい。私のように、志の低いブロガーでも、このようにアクセスアップの知識が身についてしまうから、アクセスアップ記事はとても多く、あふれかえっている。

そういうわけで、「まとめ」が多いことについて、私は腑に落ち、それはつまりまとめとは、読者ではなく、検索機械に向けた配慮であるから、人間があえて読む必要はない。それならば、最初から「まとめ」なんて語はつかわずに、「以下は検索順位のための字句なので読み飛ばしてください」と書いてくれたほうが親切だから、そうしたらどうだろうかと書こうと思ったけど、それこそ検索機に嫌われて本末転倒だから、まとめ、にしてカモフラージュするのである。

と、ここまで偏ったことを書いてみておそらく、「いや、わたしのまとめはそういうんじゃなくて、ちゃんと人間向けの、読者を思いやった「まとめ」なのですよ」と憤る人もいるかもしれないし、私もそれは理解できる。しかし、そこまで意識的に書いているのなら、記事をアップする前に、この記事には本当にまとめが必要なのかどうか、よく考えてほしい。書かれたことを整理し、見通しよくするために行うのがまとめの意義なのだろうが、それ以前に、よく読み返されて推敲された文章は、きちんと整理され、じゅうぶんにまとめられている。それなのに最後にまとめを置かなければ落ち着かない、というのは自分の書いたものに自信がないというか、信用していないというか、おそらくマニュアルに書かれた通りにやらないと間違ったような気がしてしまうという思いこみなので、やめよう。

逆に言えば、今書いている私の文章のほうが、まとめが必要である。今日の記事はわりかし焦点が定まった感じで、読者にも親切だが、普段は論旨も趣旨もなく、ごちゃごちゃしている。しかし、それでも私は自分の記事をまとめようとは思わない。思わない理由は、

1、まとめとは、取捨選択だと思っている。
2、まとめを書こうとする私は、すでに書き終わった私だから。

である。2番から説明すると、まとめを書こうとするときは、記事全体を見渡して、「まとめよ」と行うわけだから、一段高い位置に書き手は立っている。つまりその時点で記事は書き終わっていることになる。書いている人と、書かれた文章というのは主従関係というか親子関係、あるいは一心同体のような関係で、書き手は文章の全権委任者のように振る舞うが、果たして本当にそうかどうかは置いておくにしても、その関係は書き終わった時点で消滅する。だから、書き手であっても、書き終えたら一読者と立場は変わらない。その一読者が、文章の取捨選択(理由1)を行って良いのか、という問題である。

そういう風に考えなくても、例えば読んだ人が「ここが大事だ」と思った箇所がまとめに入っていないと、がっかりする、というかミスリードに気づく。そうか、それがまとめの存在目的なのか、と私は今この瞬間に書きながら気づいたわけだが、私は読者のミスリードも大歓迎、というか、読者のミスリードこそが、私の本当の主張じゃないかと、思うこともある。

まとめ

タイトルに「○○のまとめ」と入っていながら最後にまとめがあると、「頭痛が痛い」のような違和感がある。


※小説「余生」第41話を公開しました。
余生(41) - 余生