意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

あと解説もアレだわな

前回の記事では、私は「まとめ」について考えを書いた。あと、「解説」も基本的にいらねーんじゃねーの? と思っていて、要するに私は「屋上に屋を重ねる」に結構神経質なのである。

そう思ったきっかけが、10代の頃に読んだ「るろうに剣心」という漫画で、この漫画は幕末に魑魅魍魎をぶった切っていくという話です。それで、単行本の話の合間に、魑魅魍魎の解説コーナーみたいなのがあって、それが結構ネガティブな内容で、作者はアメコミが好きらしく、そういうところに出てくるキャラを、魑魅魍魎のヒントにしているらしいので、そういうことを書いているが、私はアメコミなど全く読まないので「はあ」という気分だ。それだけならまだいいが、「デザイン丸パクリ」みたいな書き方がしてあって、読んでいる方は水を差されたような気になった。

あと、「るろうに剣心」では薫というヒロインが出てくるのだが、あるとき死ぬ。しかし、実は生きていました! という展開なのだが、それが明らかになった巻末で、
「やはり殺すべきでした」
と書いてあったりして、今なら「週刊人気連載作家の苦悩」とか、「殺すべきと思いながら書かれるキャラの線はどんなものか」など、それなりに面白さもあるのかもしれないが、当時は「それはないんじゃないのー?」と思った。半死半生というか、薫が「シュレディンガーの猫」にでもなってしまったような、とても複雑な存在になり、読書の難易度が一気に上がってしまった。

何にせよ、作者が作品を貶めると、読者は面白いと思った自分の感性を否定されたような気になるのである。

なので私は、いつも書くブログの記事でも、あとから「本当はこう言いたかったのです」というのが潔くないと思うので、書き終わったら速やかに忘れるようにはしている。追記やリライトも、実際に誰かに迷惑をかけた、ということにならなければ、基本的に行わない。ただ、これは「こうすべき」と他人の記事に求めるわけではなく、私のスタンスの話です。そういえば、私のブログでも「ブログ再放送」というカテゴリがあるので、今後はわからない。

一方私は少し前から「短歌の目」という企画で短歌を書いているが、そこに参加している他の人のページを見ると自作について解説されている人もいて、そうすると完成までのプロセスなどがあって、読んでいて楽しかった。だから、私もここ数回は「解説」をやったりしているが、やはり後から思い返すと言葉が過ぎたのではないかと、気が気でない。

ちなみに、村上春樹は文庫も含めて巻末に解説はいっさいなく、その理由について、「作家同士のエール交換になってしまって好ましくない」と述べている。

村上春樹について、私は記憶を頼りに書いたが、なんとなく適当に書いてしまったような気もするので、元の文章を探したら案外簡単に見つかったので引用する。読者の「どうしてないのか」の質問に答えている。

僕は文庫の解説というのがあまり好きではないのです。文庫本解説というのはエール交換みたいなもので、誰かに解説を書いてもらうと、そのお返しに、頼まれたら書き返さなくてはなりません。それが業界の仁義です。僕はできることなら、そういうべたべたした人間関係に巻き込まれたくないのです。だから原則として文庫の解説を書いてくれと頼まれても断っていますし、誰にも頼まないようにしています。作品というのはそれ自体で自立すべきものであって、解説なんか不要だと僕は思います。もちろん「資料」が必要な古典なんかの場合は別ですが。

(引用元:「そうだ、村上さんに聞いてみよう」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶつける282の大疑問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか 朝日新聞社 p172)