意味をあたえる

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かな入力よりも、手書きがいい

最近、いくつかのブログで文字入力はローマ字よりもかな入力が良い、という主張を見かけて、その根拠まではちゃんと読んでないので、私の主張はそういう流れを汲んでないので、それを念頭に置いて、考慮して読んでいただきたい。

とは言うものの、最初の方は割とちゃんと読み、私の感想としては、
「かな入力にも合理性は認められるものの、その効能は尻馬に乗った状態ではむしろマイナスに働く」
というものだった。私は、ふと、たくさんのお金を稼ぐ成功した営業マンの本で、「お客様のお宅にお邪魔したら、鞄の下にハンカチを敷きなさい、」というのを思い出していた。私はその本を持っていたわけではなく、近所の本屋で立ち読みした。そこは本屋ではなく、実際はレンタルビデオ屋で、そこに併設された本屋だった。私は二階で妻や子供がビデオを選んでいる間、退屈だったので、下に降りて本を立ち読みしていたのである。ビデオは、ディズニーとか、そんなのだった。子供はまだ小さかったので、大人が私のみのときは、私も二階へ行き、妻がいれば一階にとどまった。妻も大人だった。階段の麓にミニゲームコーナーがあって、そこのパチンコの筐体の前には、いつの時間も、誰かしらが座って玉をはじいていた。その店は24時間営業だったのである。

そこの店長はおそらく私よりも若く、男でメガネをかけた坊主頭で、いつも死んだ魚のような目をしていたのが印象的だった。カタギじゃなかったのかもしれない、と私はレンタル会員証を提示しながら恐怖を抱いていた。人を殺したことのあるような目だ。男の背後のカウンターの奥の見える位置に、「お客様とのお約束」という貼り紙があり、それはお客様に対するお知らせなので、見える位置で当然なのだが、そこに、
「私たちは私語はいっさいしません!」
とあって、私はぞくっとした。確かに、くっちゃっべってばかりの店員は腹が立つものの、静かすぎる店員もそれはそれで怖い。ちょっした隙みたいなのが欲しい。たとえばこの店では、お客ゼロの時でも、いっさい話をしないのだろう。そういうストレスというか、息詰まったかんじがこちらに伝わってきて、はっきり言って物を買いたい気持ちが湧かなかった。でもそういう風に思うのは、ひょっとしたら私だけなのかもしれない。しかしやがてその店は潰れた。

それでヤクザの若いのが店長のレンタルビデオ屋併設の本屋で立ち読みしたビジネス書であるが、鞄の下にハンカチを敷く理由ももちろん書かれているが、それは外の地面に置いた汚い鞄をこれから商品を買っていただくお客様の床に直におくなんて、ありえない、というもので、確かにそうだ、と私は納得し、こういう人が我が家にやってきて物腰柔らかく商品を勧められたら、買ってしまうな、と思った。

しかし、この本を読み「鞄の下にハンカチ」というぶぶんのみ真似した人がやってきたら、私は買わないと思う。そもそもこの本を読む前のさらの状態で、鞄の下ハンカチ営業、がやってきたら、私はまず「イヤミなやつだ」と思う。「潔癖な人なんだなあ」と思い、「そんなにうちの床は汚いですか、そうですか」と卑屈になってしまうだろう。私は被害妄想が激しく、卑屈な人間なのだ。そもそも「ハンカチを敷く」という行為のみを取りだしたときに、汚したくないのは床なのか鞄なのか、それはヒフティーヒフティーなのである。私たちが学ぶべきは、営業の心意気(そんな言葉は嫌いだが)とか着眼点であって、決して表層のテクニックではない。

この考えは、表題の「かな入力すべし」にも通ずるのではないか。ローマ字入力のおかしなところは、コンピューター、という単語を打つときには、ケー、オー、エヌ、ピー、、、と打っていくが、そもそもコンピューターという単語はシーから始まるので、ぜんぜん関係ない単語を打っていることになってしまって、脳の効率化がなんちゃら、という話である。私はふと、中学のときの英語教師、玉山が
apple、はappleであってリンゴではありませんよ」
と話していたのをふと思い出した。それがどういう意味なのか、当時はおぼろげに理解したが、今となっては忘れた。少し考えればわかりそうだが、考えないでおく。

それで玉山はsome timeという単語を私たちに説明するときに、とある新婚夫婦が新婚旅行で、英語圏のある国へ行ったときの話をした。そこで、宿帳に名前を記入するときに、「sex」という項目があったので、新妻の方が照れくさそうに「some time」と記入した、というのである。もし夫ならば見栄を張り「everyday」と、記入していただろう(※everydayは、私の創作だ)。しかし、新婚で「some time」は、ちょっと元気がないので、初老の夫婦のエピソードだったかもしれない。玉山は、変態かもしれないが、悪い教師ではなく、私は玉山が担任のときは、玉山が甘いので、結構遅刻をした。

つまりかな入力のすすめ、は言葉に対してもっと意識的になれ、という意味であり、それならばかな入力よりも、手書きのほうがずっといい。私はたまに小島信夫保坂和志の文章を書き写すが、そのときいつも思うのが、
「漢字が少ないなあ」
ということである。普通は漢字で書きそうなところを平仮名や、片仮名で書いてあって、しかし予測変換は漢字を示すので、毎回骨が折れる。しかし、その単語を漢字にすれば、小説全体が変わってしまうから、平仮名なのである。細部に全体が宿るのである。保坂和志手書きだ、と著書で読んだが、例えばそれが嘘だったり、あるいは「今はバリバリ一太郎」とかだったら、私はカッコ悪い。小島信夫の時代はワープロなどなかったが、なにせ小島信夫は二千年代も生きていたから、最後はわからない。最後の長編「残光」では、目が見えないから、山崎さんという人に、口伝えで書き写してもらっている、とあった。その場合、漢字の指定はあったのだろうか。

とにかく文字は記号かもしれないが、不完全な記号なようなので、ローマ字でもなんでもいいから、少し立ち止まってみてもいいかもしれない。


それでここからはぜんぜん関係ない話で、昨日の記事で書きそびれたことだが、私の母は東京で生まれ育ち、結婚してから、今の埼玉県に住んでいるが、普通に「そうなん」と言う。嫁にきたのだから当然なのかもしれないが、しかし、遠隔地に住む彼女の母親もあるとき「そうなん」と言っていて、私は度肝を抜かれた。それは私と電話しているときの話だったので、私用の「孫語」だったのかもしれない。おわり。


※小説「余生」第45話を公開しました。
余生(45) - 余生