意味をあたえる

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短歌の楽しさ、難しさ

私はそもそも短歌に限らず、なにかテーマを設けてそれについて述べるみたいなのが苦手で、どうして苦手なのかを考えると、どうやら出題者を満足させる答えを出そうという、無駄なサービス精神が働いてしまうせいだ。これは、おそらく学校教育の中で、「良い子でいたい」「褒められたい」という欲求がはぐくまれてしまったせいだ。私は割に、人に褒められることの多い人生を歩んできたように思う。そういうのが、足枷になってしまうのだ。

だから私は、周りが注目していないとき、期待をされていないときのほうが力を発揮でき、周りの度胆をぬくことも、たびたびあった。そして、「あいつすごいじゃん」みたいな目に周りが変わると、駄目なのである。見方を変えれば、私はプレッシャーにものすごく弱い。

しかし、そういう性格にいくらか希望があったのかもしれない。そういう性格を自覚した私は、ここ一番以外はなるべく注目されないよう心がけた。「テーマ」というものにも、できるだけ近づかないようにしてきた。私は「好きなようにやっていいよ」というのが好きなのである。

だけれども現にこうして短歌の目に参加させていただき、私がテーマに対して心がけているのは、なるべく無責任に書く、ということである。私は外から言葉を持ってくるのではなく、自分の内側の言葉を使うよう、そこに神経を尖らせている。外からの言葉、とは他人の言葉である。他人の言葉とは、他人のものであるから、私が使っても、その他人よりかはうまく使えないのである。しかし、「テーマ」に設定された固有名詞とか、動詞などは、紛れもなく外からやってくる言葉である。そこに自分を合わせようとすると、たちまち「書く」ではなく、「書かされる」ようになってしまう。だからまずは、テーマに自分が合わせるのではなく、テーマが自分に合わせてくれるまで待つのである。

私は「短歌の目」のブログを購読していなくて、だいたいいつも時期になると、私がいつも読んでいるブログの何人かは短歌に参加しているのでそういうのが目に入り、
「ああ、短歌の季節になったか」
と思うのである。よく、自分の歌を完成させるまで他人のは読まない、という考え方があって私も理解できるが、私は構わず読み、それで必ず
「今月は書けるかな」
と不安になるが、だいたい書けてしまう。私は、例えば書きやすいお題から、とか、そういう書き方はしないで必ず1番から順番に詠んでいく。だから1番がいちばん大事で、ここでつまづくと、もうダメである。しかし逆に苦労をしても1番ができると、
「せっかく1番ができたんだから、2番以降もやってみよう」
と残りもできてしまうのである。昨日は、昨日の記事を更新してから、家族も出かけていて暇だったので、そこからやり始めた。更新間隔を見ると1時間くらいなので、そのくらいの間に鉛筆を削って、紙に書き、それをスマホで打ち込んだのである。その際いちばん気を使うのが、私は他人の短歌の記事をコピーして自分のに貼り付け、そこからその人の歌を消して私のを書くので、手違いで消し忘れると、私が盗作したことになるので、この作業にはほんとうに気を使う。

さきほど「内なる言葉」と書いたが、それはいろんな解釈、やり方があるが、私は単純にお題の言葉を自己検索し、最初にヒットしたイメージを採用するようにしている。取捨選択をしない、とは言い切れないが、取捨選択はだいたいろくなことにならず、袋小路に迷い込む。しかし困ったことは、たまに私が知らない言葉がお題になることもあって、こういうときは自己検索もなにもない。グーグルで検索すれば意味は簡単にわかるが、そこからイメージを膨らませても、それは借り物のイメージから脱却できない。しかたないから、そういうときは諦める。お題は10あるのだから、ひとつやふたつは、ハズレがあっても構わない。そして、あきらめたときに用いるのがテクニックである。私は、最初の頃は素直に「わかりません」みたいな宣言をしたり、「調べたら」と、正直に書いてみたり、あとは似てる字に替えてそれについて書いたりした。そういうのは、自前のテクニックで、自分が飽きない限りはそういうのも使う価値があると思う。あと、最近は他の人がつかっている技も積極的に採用している。私は、今回は「くきやか」という言葉が実は知らなくて、だから、「くき/やか」と分けて前後に付け足し「にっくきやかん」とし、そのあと義母の悪口を付け加えて整えた。そうすると、「憎きやかん」とは、義母のことなのか? そういうふうに考えると面白い。

私は自己検索して、最初のイメージを、と書いたが10こも書いていると、ひとつかふたつくらいは、そういうのを飛び越えて、
「ぜひこれを使いたい」
みたいなのが出てくる。私はそれを「フィクション」と呼んでいる。

私は先月にも実はこれと同じような記事を書こうと思っていて、機を逃して書けなかった。そのときは「短歌のむずかしさ」というタイトルにしようと思っていて、以下はそのことについて書く。つまりここまでは「楽しさ」についてであった。

私は1ヶ月前のとき、他の人の記事を読むと、
「今回のお題はむずかしかった」
というのが、複数目につき、お題というのは外から与えられるものだから、本当は簡単・困難の問題ではなく、相性の問題だと思う。私は自分の知らない単語が出てきたらテクニックを用いる、と述べたが、さすがに5こも6こも知らないのが出てきたら、投稿自体を取りやめる。しかしそういうのとは別に、確かに私の中にも「書きづらさ」というのはあって、その書きづらさについて、少し考えてみたら、それは短歌の技術の向上にあるのではないか、と思い当たった。

私は、最初に「短歌の目」に参加させてもらったときは、よく指を折って、五文字や七文字、あるいは十二文字とかにおさまるかどうかを、度々確認した。しかし、今となっては言葉を考えると、ほぼ自動的に五文字と七文字が出てくるようになっている。あるいは、目に付いた単語を拾ったときに、五文字か七文字か、なんとなくわかるようになってしまった。それは、確かに便利なことだけど、同時に不安なことでもある。例えるなら、今までは素材が拾えたのに、今じゃ加工食品が出てくるようなものだ。素材からつくる料理を、加工食品の上におくのは、誰でも同じである。

私は毎日ブログを書いていて、そうすると見ている風景はだいたい文字となって目に映るようになってくる。何を言ってるんだと思われそうだが、例えば毎日写真を撮っている人は、風景はすべて被写体になるだろう。そうすると、そもそも生の風景を見ていないような気がしてきて、とても不安な気持ちになる。ごめん、話が複雑になったので、この段落は忘れてほしい。

とにかく五文字七文字が簡単に生産されるようになると、それが本当に自分の内なる感情から生まれた言葉なのか、あやしくなってくる。無意識が勝手に、短歌にしやすい言葉を取捨選択してるんじゃないか、と疑いたくなる。現に、調子よく出てくる五文字七文字を、そのままの調子で並べると、ずいぶんうすっぺらい歌が出来上がる。いわゆる「短歌っぽい」短歌である。「短歌っぽい」がなぜいけないのかといえば、やっぱり他人の言葉だから、ということになる。今まで一体何人の人が短歌を詠んだかは知らないが、途方もない数の人たちなのは間違いなく、そういう人たちが世の中のありとあらゆる五文字七文字を使ってしまい、場合によっては四文字八文字、無限文字までも採用しているのだから、私たちが「自分の言葉」を獲得するのは不可能なのである。しかし、最初はそれができた。それは、無知だったから当たり前、という理由になりそうだが実はそうではなく、今までとは違う思考ができたからである。違うから、新鮮だし負荷も、時間もかかる。そうこうしているうちに、他人の言葉が馴染み、自分の言葉となっていったのである。

だから、書きづらさ、とは新しかった思考がもう古くなり、沈滞していった証拠であり、そういうのを人はスランプとか呼んだりして、短歌の指南書を読んだりする。私は、短歌の目の他の参加者が、とても勉強熱心で、たくさんの本を読んでいるので、大変びっくりした。一方の私は、自分で鉛筆を削り、手書きで文字を綴ったりしている。

私たちは遠回りを、遠回りをしなければいけないのである。


※小説「余生」第51話を公開しました。
余生(51) - 意味を喪う