意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

「ハウアーユー」感想

少し前に必需品さんが、「ハウアーユー」という漫画のあとがきの文章がfktack(私)に似ている旨のツイートをされていて、私は興味を抱いたのでAmazonで購入し読んだ。届いたその日にまず最初にあとがきから読み、そもそも届いた日というのも、予定の日の次の日だった。郵便の受け取り手が誰もいなくて、しかも不在票も義父だか義母が、あるいはそれを渡された妻が、私に言うのを忘れてすぐに連絡できなかったのである。私は、特にこういうことに悪気がないのはわかるが、不在票の電話番号の並びとか、細かい手順を読んだりしているうちに、いっそのこと送り返してなかったことにしてもらいたい、とか思う。しかし、私の思考がそんな風に破天荒ぶるのは、どうせそうはできないはずだ、という見くびりのようなものが前提としてあるからだ。

私は何日か前の記事で、「ハウアーユー」を買いましたよ、的な文章を書いた記憶があり、しかしそこでは内容に全く触れなかった。そのとき本文、漫画のことを本文というかは微妙だが、本文を読んだ後だったかは忘れた。しかし、改めて書こうと思い、なんとなく言いたいことも頭の中に生じ、本も私がいつもお弁当を入れているピングーの袋に押し込んで会社に持って行った。このピングーの袋というのは2代目で、元はミスタードーナツでもらったか、ポイント購入したもので、先代は青だった。それを5年近く使ったら、持ち手がいい加減ぼろぼろになったので、
「そろそろ新しいのにしなきゃかなー」
なんて、言っていたら、私が言ったらそれはあと半年は使いますよという宣言でもあるのだが、3日くらいして妻が全く同じデザインの袋を出してきたから驚いた。しかし今度はピンクだった。青い方の袋は、ずっと前にこのブログでも取り上げた。

「ハウアーユー」は、けっこう大きな書物で、しかも感想を書くつもりで持っているものだから読書用ではなく、読書用には、昨日か一昨日の記事で紹介したヘーゲルの本を持っているので、私は大荷物になった。袋の主役はお弁当で、その脇に腰痛を起こしたときのためのコルセットが入り、その上にTシャツを1枚入れる。あと水筒も入る。それだけでぱんぱんなので、ヘーゲルは一番上に平積みにする。「当店おすすめ!」の置き方である。ちょうど蓋をするような形だ。ヘーゲルが文庫本で助かった。本当は無理をすれば「ハウアーユー」の脇に押し込むこともできるのだが、そうすると表紙が破けたりするから、しない。私は割と物を大切にできない性格で、帯などは高確率で引きちぎってしまう。だけれど、そういうことをするとがっかりするので、私はヘーゲルは平積みした。そうしたら昨日の強い雨で表紙が濡れた。すぐに拭いたが、へにょへにょになってしまったかもしれない。

そんな風に「ハウアーユー」は、おそらく一週間くらい持ち歩いたが、その間に感想を書こうという気持ちは全く起きなかった。不思議だな、と思った。分析するに、それは面倒だからだ。私はいつもスマホで文字を打っていて、常に片手はふさがっているから、本を開いておく手が余っていない。だから足でおさえたりする。そういう物理的な面倒くささと、あとは、現物を持っていると、タイトルとか著者名とか、あとは本文にいたるまでちゃんと書かなきゃいけないから面倒だ。私が中身を正確に紹介しても、「ハウアーユー」を読んでみたいという人はいないだろうし、いやいるのかもしれないが、どっちにしたって検索すればすぐに出てくる。そうじゃなきゃコメントでもなんでも訊ねればいい。それができないということは、それほどの興味はないという証左である。もしかして私が怖くて訊けないのか。いや、面倒くさくて訊けないのか。関係ない話ばっかりするから、話の長い老人につき合わされるみたいな面倒くささ、人生の無駄さがあるのかもしれない。だけれども、私は訊かれればちゃんと答えるし、過去には簡潔に答えたこともあった。なので、訊いてもらって構いません。

それでここから内容に入りますが、あとがきを読んだ印象としては、この作者は同じ長さの文を綴っている。もちろん文字数を数えたら違うのは明確だが、ずっと同じ調子、抑揚がない、メリハリがない。一方の私はわりと長かったり短かったりするから、けっこうメリハリはあると自負していて、だから似ていないと思った。もちろん、必需品さんが似ている、と感じたのはどのレベル、どの抽象度の話かはわからないので、似ているのかもしれない。

私は正直恥ずかしくなってしまった。「ハウアーユー」の作者にくらべたら、私の文章はまだまだ欲まみれで、いやらしい文章だ。読まれようが読まれまいが、文体にはなにも影響をしないという風を装いながら、実は周りの目もけっこう気にしている。私は計算とかテクニックを捨てて書くのがいい、と思っているし何回かブログでも書いたが、実は私の文章は巧妙に計算されているのではないか。

あと、あとがきでは「あの話のあのコマはこういう狙いがあって書きました」というのがいくつもあって、そういうことを書くためのあとがきなのだから当たり前なのだが、押しつけがましさがなくて、良かった。作者は、作品から手が離れたら、作者であっても読み手のひとりにしかなれない、というのを完全に理解しているようだ。ときに作者は作品に対して全能者のように振る舞うから、私はそういうのが鬱陶しい。しかしこういう風に事細かに「あのコマの狙い」的なことを書かれると、狙いが細かすぎて逆に的を外すような、そういう安心感がある。そういうのが私は新鮮だった。私は今まで、自分の書いたものに後からコメントするのは危険な行為と思っていて、極力近づかないようにしていたからだ。だから、今後はたまには読み返して何か言葉を残したほうがいいかもしれない。

いや、そうじゃない。私が感じるあとがきに感じる鬱陶しさは、主従関係のはっきりした部分であって、主従関係、という単語を最近よく目にするから、私の中からその単語がするっと出てきて私の思考が拡張する。つまり多くのあとがきであるとか解説というのは、本文に対して「従」であることが意識されすぎてつまらない。特に素人の自作解説は、オマケ要素が強すぎて、本文の面白さにぶら下がっていて、依存しすぎていて読む価値がない。だから後から付け足す場合は、新たな面白さを開拓しなければならない。


※小説「余生」第57話を公開しました。
余生(57) - 意味を喪う