意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

忘れるとはなにか

一昨日、本屋で文藝という文学誌を買って、読んでいたら、下の子が
「もうこんなに読んだの? はやっ」
と言ってきて、なぜそういうことを言うのかと言えば、この子は本というのは頭から読むものだという刷り込みがあって、あるからだ。
「これは雑誌というもので、必ずしも最初から読むために作られたものではないのです」
「じゃあ最初はいつ読むの?」
「わからない、読まないかもしれない」
「そんなのもったいない」
次女がそんな生意気な口をきくのは、最近になって次女は本を読むようになり、しかもそれは絵のないものだから、すっかり得意になっている。しかしそれは私からすれば、「アナの誕生日パーティー(みたいなタイトル、忘れた)」とか、「インサイドヘッド」などの序の口みたいな本だから、私からすれば失笑ものだ。しかし私だって中学一年のときに「アラジン」を読んでいるのだから、私は私に対して失笑しているのだ。

ところで私はそのときジョイスという作家のユリシーズという小説を読んでいて、それは第7章のぶぶんで、1から6章は前号とか前々号に掲載されているので、たとえ私が雑誌を最初の一ページから読んだとしても、最初から読めるわけではない。文藝という雑誌は季刊なので、最初のほうはきっと一年前とかだから手にはいるかも微妙である。しかし、とにかく私は第7章を読んでいて、その冒頭の「前回までのあらすじ」が、もうあらすじのていをなしてなくて、あまりに面白いから、ブログで引用しようと私は思ったのだ。けれど家に忘れた。それなら家に帰ってから改めて記事を書けばいいのだが、そうできればそうするし、そうしないかもしれない。今日は義妹が泊まりに来ると言っていたから。義妹は、冬に子供を産んで、「冬に」というのが虫が植物を指す言い回しみたいで、私は「彼女とその子供は越冬したのである」なんて、文をつなげたくなるが、彼女は特段虫のような顔つきをしているわけではない。小学校の頃、よくカマキリみたいな顔をしたクラスメートがいた。そいつは金子といって、クラスは別だったが(じゃあクラスメートじゃないじゃん)、あるとき校庭の石垣をめぐってトラブルになり、彼になにか屈辱的な気になってもらいたいと私は思ったが、手元にある材料が「金子」という苗字しかないから、
「この、金まみれ!!」
と言い放ったら、
「ありがとう」
とお礼を言われた。もちろんぶち切れながら。

それで、人間のような顔をした母子が今夜我が家に泊まりにくるから、夜になったらもうなにも書けないかもしれない。もうその頃にはジョイスなんて、どうでもいいや、という気になっているかもしれない。本文を読むと、もう面白いのかつまらないのかもわからない、ただ文字文字文字の連続で、想像力もなにもない。ヘーゲルを最近読んでます、と最近よく書くがこれも同じで、なんの取っかかりもなく、ただ国家だの宗教だの自由が私の前を横切っていく。

あ、今つまづいた。

「横切っていく」という言い回しが気にくわない。「国家だの宗教だの自由だの」に対する熟語が出てこなくて、私は「横切る」という動詞を選択したが、実際文字は横切らない。ただ目の前に現れて、それで、なんだろう、消滅するのだろうか。私はさいきんこういう「置きにくる言い回し」と言うのだろうか、そういうのが苦手で、例えばそうは思っていないのに、話がまとまらないから「気をつけたい」とか付けたり。もっとわかりやすい例もある気がするけど今はこれが精一杯。私の一昨日くらいの記事では「どんな思考回路をしているのか」と書いたが、これはまさに文の流れ上、自分の可笑しな行動を紹介したから、そんな風な文の結びが自然なのだが、私は私自身の思考回路が理解できていないわけではないから、こういう言い回しが我慢ならず、そのあとすぐに「これこれこういう思考回路だ」と付け加えた。