意味をあたえる

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人生の時間割

今朝方三森さんの記事を読んでいたら、記事の中で三森さんはニーチェの「ツァラトゥストラ」を読んでいて、実は私も読んでいるから、(私も読んでいます)と思った。しかし、私はキンドルで読んでいておそらく三森さんもキンドルか、あるいは別の電子書籍で読んでいるのは普段のブログ記事からなんとなく伝わってくるので私はそう判断しているのだが、この件に関して直接やりとりをしたわけではない。とにかく私はキンドルで読むと挫折しやすい傾向にあって、ニーチェもすでに投げている。前にどこかで髪の書物と電子書籍では読むときに使う脳の箇所が違っているとあって、私はおそらく脳のその部分が退化しているのだと思う。

そんな後ろ向きなことを書いても仕方がないので前向きに悪口を書くなら、キンドルを読んでいると下の方に小さい文字で、
「現在なん%」とか、
「この章を読み終わるまであとなん分」
と出ていてそういうのが気にくわない。特に「あとなん分」は、この時間よりも早くゴールしてやろうと思って焦ってしまい、とても読書という感じでなくなる。車のナビと一緒で、「目的地まであとなん分」の表示が短くなると嬉しくなるので、信号につかまったりすると、無駄にイラついてしまう。

だからどうして読書行為にまで成果とか効率とかを求めてしまうのか、「結果を欲しければ書を捨てよう」と、私は声高に叫びたくなってしまうが、そういう時世なんだからしかたない。もちろん調べればそういう表示は消せるのだろうが、私はそういう意識というか考えが気に入らないので、消えても同じなのである。

それと三森さんの記事を読んでふたつくらい思うことがあり、それについて考えていたら「人生の時間割」という言葉に思い当たって、これは「人間交差点(ヒューマンスクランブル)」という漫画の話のひとつのタイトルで、「人間交差点」は、ショートストーリーのオムニバス形式なのです。その中で、小学生の女の子が叔父に勉強を教わるのだが、この叔父がとんでもない怠け者で、可南子(女の子の名前)が宿題をする横で、漫画ばかり読んでいる。それは夏休みだった。それで、可南子も大人になって、あるとき叔父の書斎に行くと、叔父は不在で、机の上の原稿用紙に、
「可南子、可南子、」
と名前が書き連ねてあって、叔父はどうやら可南子に恋心を抱いていたらしい。私がおぼえているのはこれだけなので、もう読んだ人は「???」という感じなのだが、それはごめんなさい、私が叔父で三森さんが可南子で、という意味でもないのだが、そういうことでカタルシスを得られる人がいるなら、そういうことでも大丈夫です。私には妻子がありますが。

それで、話の中で叔父が可南子に、
「人にはそれぞれの「人生の時間割」があるんだ」
と話したシーンがあって、私はこの「人生の時間割」という言葉を、なにかのきっかけで思い出すことが定期的にある。今朝はその定期に触れたのだ。だから、私は今日はもうこれだけ書いたから三森さんの記事で思ったことは細かく書かないが、私は私の、三森さんは三森さんの時間割をこなしているんだな、と思った。

※三森さんの記事はこちらです。