意味をあたえる

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又吉さん/反転

さっき本屋へ行き、文庫のなんでもかんでも又吉さんの帯が巻かれているのはいかがなものかと思う。又吉さんがわざわざ薦めてこなくても、私もいくらか小説や小説論は読んだりするので、その作品の魅力なりは、それなりに理解している。こういうのをおせっかいと言うのだろうか。私は、けっこうひねくれた性格なので、又吉さんが
「この本は面白いですよ」
なんて言ってくると、私はわざと
「この本のつまらなさはこんなぶぶんです」
とか言いたくなってしまう。その際私は頭の中で、「本、ごめん」と謝罪はするが、このままでは私がどんどん悪者になってしまう。又吉さんのオススメ癖も、たいがいにしてもらいたい。

壁際のアンティークチックな棚の上に小さめの時計があり、それももちろんアンティークチックな、英国産といった趣があり、私をそれで時間を読みながら、どうしても違和感が払拭できない。あれれ、時計ってこうだっけ、とか思う。でも時計は間違いなく3時10分を指している。と思ったら違った。9時10分を指していた。私は3時頃に本屋に到着したことは覚えていたから、時計を見ると「だいたい3時」という頭で見るから、もう3時にしか見えない。見事に反転している、と思ったら反転したのは短針のみで、長針は前でも後でも「10分」と言っている。私がちょっとおかしい。これは作り話でしょうか。

午前中にまた公園へ行って、シキミがブランコをしている間、私はブランコに乗ると酔うから暇なので、ブランコの周りの鉄の細い円形の柵の上を、綱渡りよろしく両手を広げてよろよろ、渡っていたら、案の定すべって落ちて左半身を強打した。内側に巻き込んだ私の左二の腕にアゴがヒットし、軽い脳しんとうを起こした。脳しんとうはもっとひどいかもしれない。私は、
「やっべ」
「いって」
とか言いながらその辺を動物園の虎みたいにうろうろした。虎もいつも痛みをこらえているのかもしれない。
(滑ると思ったぜ)
と私は思った。ちょっとしつこくやりすぎた。何度か往復しながら、そのたびにスニーカーの底がつるりと行く様子をイメージした。だいたいの思考は現実化されてしまう。私は曲芸師にでもなりたかったのである。特技が欲しいのである。少し調子に乗った。

しかし奇妙なのは、そういう私の一大事というか、痛みが、私の子供には伝わらない。シキミは4つあるブランコを互いに違いに動かし、即席のオブジェをこしらえて私に評価を求めてくる。私がいくら、
「それどころじゃない」
「どうでもいい」
と拒否しても聞かず、しまいには怒り出した。その後かくれんぼとか、スイカ無しスイカ割りとかして遊んだ。

本屋にくる途中に踏切があって、そこを電車を通過するのを眺めながら、やはりいつも感じる違和は、電車の中から見る踏切待ちの車と、車の中から見る電車と、どうして私たちは脳内で一緒にイメージすることができるかという問題である。車から眺める電車内の風景は、別世界のような感触がある。動いているからだろうか。