意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

fktack

そういえば「意味をあたえる」というタイトルで記事を書いたことがあったが、私自身のIDのfktack、は、なかった気がするのでタイトルにした。ここ数日、Twitterでfktackというものを頻繁に、頻繁にといってもいくつかだし、しかも各々呼び方は異なる。私が読み方を放棄したためだ。そういう風に、人が勝手な呼び方をしているとき、私はむしろ愛着のようなものを感じたが、あまりたくさん並ぶと、だんだんと自分以外の人のような気がしてくるし、そうするべきだ、とも思えてくる。

昨日三森さんが、「ハイパーグラフィア」という単語から私を連想してくださったようだが、私はこの言葉を知らない。三森さんはいろんな言葉を知っている。調べたらたくさん文字を書く人のことのようで、私自身はたしかに沢山の文字を綴っているから、たくさん、は相対的な表現だから本当にたくさんかどうかは、その人の評価に依存する。だから、私自身は、
「はい、毎日たくさん書いています」
「いいえ、私はそもそも書く行為自体を好きにならないよう、必要最低限しか書きません」
「たくさん、は相対的な評価なので、どちらとも言えません。私自身の評価に依存するのかもしれませんが、それなら私は評価自体を放棄したい。私は上の2つ、あるいは今の鍵括弧内の答えも、すでに別の記事でやった気がする。だから、ちょっと疲れちゃったのかもしれない。「私」は新しさの中にのみ存在する。テンプレートを用いたら「私」が死んじゃうからで、生きていくためには、矛盾も食い違いも許容される。だから、だいたいの質問に対し、イエスもノーもそれ以外もありうる。

私が「私」を意識したのは幼稚園ころで、その頃の一人称は「ぼく」だった。ぼくはどうしてお母さんやしゅん君ではなくぼくなのか、どうして入れ替えが起きないのか、ぼくは台所の椅子を見ながらよく考えた。それは換気扇のそばの椅子で、父や母はその椅子に座りながらいつも煙草を吸った。もとは家中どこで吸っても良かったが、ぼくが小児喘息を発症し、熊谷にある小児病院に連れて行ったら、医師がチアノーゼを起こしているぼくを処置しながら、
「子供の前で煙草を吸うんじゃない」
と怒った。怒った理由は違ったかもしれない。しかしそれ以来両親は決められた場所でしか煙草を吸わなくなり、決められた場所とは父の部屋と台所の換気扇の椅子の下だった。そこでは必然的に大人の会話が行われるようになった。だから本来なら、ぼくはそこへ近づいちゃ行けないが、その椅子にはビニール袋が下げられていて、そこには缶のゴミを捨てることになっていたから、たまには近づかなければならなかった。あるいは、単純に母を視界におさめたくて、近づいたのかもしれない。そうして、ぼくは椅子の背もたれを眺めながら、「ぼくはどうしてぼくなのか」を思考した。

考えていくと、ぼくが内側にもうひと揃いできる感覚があった。考え続けるとさらにできた。だんだんと、マトリョーシカのようになっていった。

私は、マトリョーシカ、という言葉が冠につかわれたブログを知っている。書いている人も、自身について考え抜いたに違いない。しかし、台所の椅子や換気扇やチアノーゼは、まぎれもなく私のものだ。