意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

できれば語彙を減らしたい

短歌の卯野さんが、「語彙を増やすために短歌をやっています」あるいは、「良い短歌を書くために語彙を増やしています」という旨のことを書かれていて、私はなるほどと思った。私が驚いたのは、短歌の目に参加されている方のブログを読んでいくと、結構な方が短歌指南の本を読んでいて、好きだから読むのは当たり前だから、驚く私が変なのだが、驚いた。というよりも、「読んでいます」じゃなくて、「読まなくちゃ」というのに驚いたのだ。

今から二つの話をします。

私がそれで、タイトルのように語彙を減らしたいと思っているのは、山下清や「やし酒飲み」という小説の影響で、山下清は裸の大将のイメージが強く、だから馬鹿丸出しのイメージで、面白い文章を書くには、やっぱり馬鹿のほうがいいんだと、割と本気で思っている。少なくとも頭が良すぎるよりかは良い。私はだから、ふだん結構「頭がいいね」と褒められたりするから、それは嬉しいことだし、自尊心も満足しているからいいのだけど、一方で「俺には面白い文章が書けないかもしれない」とがっかりしている。「やし酒飲み」という小説は、アフリカの人が、無理やり英語で書いた小説で、内容も無理矢理で痛快だ。森の中で色々な妖怪に遭遇するのだが、主人公は「ジュジュ」という魔法で撃退したりするのだが、それを使ってあっさり倒したと思ったら、ちっとも使わずに苦戦したりしていて面白い。使わないと、読んでいる方は、「あ、なくなったのかな?」とか「温存しているのか」とか勝手に考えるが、次になるとじゃんじゃん使い出したりするから、「おい、さっきもそれ使えよ」とか思ってしまう。そういう雑さが面白い。

二つ目は、私はそもそも「教えてもらう」という行為が好きではなく、教えてもらうってなんだよ、教えてもらったらうまくならないだろ、とか思ってしまう。教えるという行為は教える側の主観だから身勝手なぶぶんがあり、しかも教わったほうがうまくならなくても、「その人のがんばり次第」といくらでも責任を逃れることができる。だから、教わるじゃなくて盗むが正しい、と私は思っている。

しかしそういう私の考えは非常に効率が悪く、実際は教わった方がうまくなる。昔バンドを組んでいたときに、ライブを主催している会社の社長があるとき社員の代わりに私たちのステージを見にきて、そうしたら後日説教されて、それは下手すぎるからであり、それでプロになりたければうちのレッスンを受けろと言われ、私以外のメンバーは割とすんなり申し込んだが、私は最後まで渋ったが結局受けた。そうしたら、私の先生になった人ももちろん、他の楽器の人も思いのほか意識が低くて居心地が良く、結局6年くらいレッスンに通ったが、プロにはなれなかった。教える方が悪かった、という見方もあるが、教わっても教わらなくても結果は同じである。バンドをやっていると、びっくりするくらい色んな人がアドバイスをしてくる。これは音楽に限らない話だが、「麦踏み」と呼ばれる行為で、わざとキツいダメ出しをして、そこでへこたれる人はダメ、なにくそと反発する人が伸びる、という理屈である。私はこれは、例えば仕事とかで、相手を洗脳したいときなどは有効かもしれないが、表現は洗脳とは真逆だから、この「麦踏み」も逆効果だと思っている。この「アドバイス」によって、たくさんの人がプロになる芽を摘まれた。私たちはどうしようもなく下手くそだったから、「本当はプロになれたのに」とはなかなか恥ずかしくて言えないが、それでも他人の言うことに耳を傾けたせいで、その可能性はぐっと下がった。私たちは若くてまだ純粋で、他人が言ってくれることはなんでもありがたいと思っていた。私の先生は「そういう馬鹿なやつの言うことは聞くな」と教えてくれたから良かった。それもまた、アドバイスなのだが。