意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

自己の相対化

昨日か一昨日の(チェコ好き)さんのブログを読んでいたら、たくさんの人を集めてお話をされていて、その人たちは(チェコ好き)さんの話を聞くために集まるわけで、とうぜん話に集中されていて(チェコ好き)さんは人気者でうらやましい。それで、記事ではお話しされた内容にも触れていて、その中で(チェコ好き)さんは胃腸も弱くあまり食べ物が食べられず、食事が楽しくないという旨のことを言っていて、そしてそのことをさらりと、「割とそういう人は多いんですけど」と言っていて、人気の秘密は自己の相対化なのではないか、と思った。

考えてみると、いつのまにか教育でも「個性」という言葉が連発されるようになり、いろんな場所で「自分らしく」「私らしく」というのが目につき、「自分らしければいい」みたいな風潮になってしまった。だから、みんななんでもかんでも「特別」にしがみつき、例えば「私は周りの人は決してできないこんなことができます」みたいなプラス方向の特別は、嫉妬を買うから割とすぐ手放すけれど、「私はみんなができて当然のこのことができませんよ」にはかなり執着する。「ピーマンが苦手」という人がいて、「私も苦手なんだよね」と誰かが話に乗ってきたら、「いや、私はひとくち食べるだけで蕁麻疹が出て、過去には入院したことがある」と、無駄にアピールしてしまう。ピーマンひとつでここまでアピールする人はあまりいないが、角が立つからピーマンにしてみた。

こういった「マイナス方向自慢」というのは、日常でも反射的に行ってしまうことが多く、どうしてなんだろー、と考えるとやはり流行りの「個性」「自分らしさ」なのだろうか、と私の中ではあまりしっくりこないけれど、直感でそう結論づけた。そういう風潮のせいで、なんでもいいから「特別」をこしらえないと、生きている意味がなくなってしまう......。いや、なくていいんですよ。個性は捨ててしまおう。

一方で「共感が大事」という文言もよく目にする。特に「ブログ術」「文章術」というのでは「読者の共感を得るためにうんぬん」というのが、もはや定型化している。しかしよく考えると、個性的な人間が他人の共感を得るのは、至難の業ではないかと思う。あと、大人になれば社会の一員になって、学校は社会性を身につける場なのに、どうしてそういう場で個性が重要なのだろうか。大事なのは個性ではなく社会性であり、協調性なのではないか。そういう相反するものが、当たり前のように同居している世の中が恐ろしい。精神的に病んでいる人というのは、この矛盾に素朴に勘づき、周りにそれを訊ねても
「そういうものなんだから、そうでしょ」
といい加減なことを返されて自分の中でうまく処理できず、矛盾がそのまま自己の矛盾になった人なのではないか。よく、繊細な人の比喩で「ブレーキを踏みながら一生懸命アクセルを踏んでいる」というのがあるが、それは個性と社会性の綱引きに寄って起こるのではないか。だから私はもし相談されたら、
「まずは個性を捨てなさい。あなたには才能はありませんよ」
とアドバイスしたい。

私が勝手に(チェコ好き)さんが自分の相対化をうまくできた理由を考えると、やはりチェコの映画に感銘を受けたことと、旅をしたからではないか、と思う。私は映画はほとんど見ないし、旅行も好きではないから、私の見立てには全く説得力がないので、単に(チェコ好き)さんが、才能に恵まれただけなのかもしれない。才能というのは客観性の有無のことである。ちなみに私は食べ物を美味しそうに食べ、高校時代は「パンを幸せそうに食べる男」と異名をとった。

私が前の前の段落くらいで、「角が立つ」と書いたのは、私は最近では以前よりもたくさんのブログを読むようになって、そうすると割と高い頻度で、
(私は特別なんですよー)
というのが鼻につくからで、そういう人は、(チェコ好き)さんのブログを参考にすれば良いと思う。

ちなみに私も決して特別なんかではなく、日々自意識と戦っています、と書くとじゃあここまで書いたのは何だったんだと、それこそ悪臭を放つ文章になるので、私は特別中の特別なのです。

チェコ好き)さんの記事