意味をあたえる

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遠近法

るきさん」の作者だれだっけ?
高野文子
少し前に「ドミトリーともきんす」という本が蔦屋で平積みされていたので私は買って、ちょっと高いなあと思った。家です読んだら割と最初の方に、お母さんと娘が出ていて、娘はまだはいはいくらいの幼児だ。それで、だれかが突然ケーキをプレゼントしてくれ、お母さんが、
「じゃあ切って食べましょうか」
と言い、台所へケーキを持って行こうとすると、娘は泣き出す。どうして泣き出したのかと言うと、幼児にはまだ遠近感がなく、ケーキが突如小さくなってしまったと感じ、がっかりして泣いたのだ。あるいは、お母さんが、縮んだから泣いた。

そういえば私は子供の頃に母が死ぬ夢を見て、それはお風呂場で毒ガスが発生して母がそれを吸って死に、脱衣場は無事だったので、私は脱衣場で生きたまま死にゆく母を目撃した。母は毒ガスの影響なのか体がどんどん縮んでいき、同時に体が茶色に変色していく。服は着ていたはずだが、いつのまにか省略された。それでどんどん小さくなって目や鼻や指先なども省略され、十字架のようになって、茶色い鶏の唐揚げのようないろの十字架になって十字架は宙に浮かんだ。これがキリスト教の始まりである、とか私が思ったかは知らない。私はまだ幼かった。それが恐ろしく悲しかったので、私は当分の間夢は拒否するようになった。

それで、昨日若林奮の本を読んでいたら「ハンドルを右に切ったとき、左側の世界はどうなっているか」ということが書かれていて、例えば私たちは「目的地」を設定してしまうと、それ以外のことはまず考えない。「目的地」に二度か三度問題なくたどり着けば尚更で、それ以外に目を向けることがあっても、「寄り道です」と後ろめたい気持ちになったりする。遠近法に慣れきってしまうと、物が小さくなると、
「はいはい、遠くに行きました」
と簡単に結論づけるけど、本当にそうなのだろうか。人は慣れきったものには思考を向けない。だから、たまには向けましょうよ、と言いたいわけではない。向けようと思ったくらいでは向かない。「考えています」という人はまず考えていない。たまに物が大きく見えたり、天井が低く見えたりすることはある。

私がTwitterを始めた頃、私は色んな人に文字を送り、その一部は返ってきて会話のようになったが、その返ってきた主というのは、私と同じようにPCの向こうにいるのか、気になったときがあった。ひょっとしたら何かしらのプログラムかもしれないと考えた方が腑に落ちる気もした。だけれどもそれは、テレビで北海道が映し出されたときに「それは本当に北海道であるのか」と思ったり、自動車で名古屋まで行ったときに「本当にここは名古屋か」と、最初の頃の人は思ったりしたのと同じなのだろう。そして、それは北海道でも名古屋でもなかった。