意味をあたえる

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ファンキー教頭

昨日中学校の合唱なんちゃらがあったので行ってきた。歩いていった。歩道が車道よりも一段高く、側溝の蓋は不揃いで足をのせるとごとごとと音を立てた。昔この通りを歩いていたら、途中で雪が降ってきて来た道を引き返したことがある。平日だった。見慣れた風景の連続だった。パン屋の隣には美容室がある。しかし私はパン屋も美容室もこの日初めて見た。その名前を覚えておこうと思った。忘れた。

発表は30分程度で終わったが、全体としてはもっと長かった。子供の出番を見計らって、私は途中からやってきたのだ。私の子供は小さいときはずば抜けて背が高く、運動会などでは下級生を引率する六年生のような風貌だったが、この数年でずいぶん小さくなった。運動を激しくやった人のほうが発育はよく、むしろ私の子供の立っているところがへっこんで見えくらいだった。

そのあとに教師たちの出し物があって、教師たちは被り物をしたり小躍りしたりしたから、生徒たちはどっかんどっかん盛り上がった。生徒の中には肌の黒いのもいて、その人とその周りは一緒に踊り出した。奇しくも私はそのときバッグの中にエイモス・チェツオーラ「薬草まじない」という小説を忍ばせていて、これはアフリカを舞台にした小説で、登場人物はことあるごとに踊り出す。さまざまな「重荷」を背負った人々が全知全能のまじない師のもとに集まってきて、まじない師は薬草を調合してその重荷を取り払ってやるのだが、五体満足になった人々はいちいち喜んで踊る。二人目以降は「同じだった」とかで済ませてもいいのに、著者もいちいち描写するのでそういうのが小説っぽくなくて気持ちよかった。

そのあと(これは現実の方)教頭が出てきて順位の発表を始めて、そうしたらこの教頭がやたらともったいぶったり、ダジャレを連発するファンキーな教頭で、落ち着きかけた生徒たちはまたどっかんどっかん盛り上がった。私はさっきもそうだったが、この人たちは私の先生や、教頭先生ではないので、会場の空気と私のテンションは反比例の関係にあった。しかし例え私自身が生徒だったとしても、大して盛り上がらず
「早く帰ってFFの続きやりてーな」
とか思ったかもしれない。私の地方ではファイナルファンタジーは「ファイファン」と略すのが一般的だったが、あるときファミ通を読んでいたら「ファイファンはなんかエロい」と書いてあったので、以来私は気をつけるようになったのです。

私が中学二年か三年のときに、合唱祭というのがあって、それはクラスごとに歌う歌を決めて練習して順位をつけるイベントなのだが、そこで私たちが音楽室で練習していたら、少しふざけながら練習していたせいもあって、教師が「声が出ていない」と怒り出し、
「あんたたちはもう教えても無駄だから教えない。合唱祭はあきらめなさい」
と、職員室に引っ込んでしまった。

私たちは途方にくれてベランダに出て日向ぼっこをしていたら、やがて誰かが
「謝りに行こう」
と言い出して、そういう空気になったから私は
「謝っても無駄だ。あきらめろと言われたら、あきらめるべきだ」
と主張したら、そばにいた陸上部の屈強な男に胸ぐらをつかまれ
「てめえふざけんなよ」
とすごまれた。あとその辺の噂好きの女子に
「弓岡まじ死ねよ」
と言われた。確かに私は空気を読まない発言をしたが、「あきらめろ」と言われたのならあきらめるしかないと、私は思っていた。教師のほうこそそれなりに覚悟を持って言った言葉だと思ったのである。だからアホみたいに頭を下げるより自分たちで必死で練習して、教師を見返そうぜ! というのが私の本音だったが、無駄に「死ね」とが言われて私は傷ついた。

さらに私が本当にショックだったのは、クラス全員で謝りにいったら教師はあっさり許してくれて練習再開となり、じゃあ結局怒ったのは演技であり、パフォーマンスであり、私たちが謝るまでがひとつのパッケージ、茶番だったのかと、私は落胆した。もちろんまた胸ぐらを掴まれてはたまらないので、私はほっと胸をなで下ろす仕草をしたのは言うまでもない。