意味をあたえる

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「自分」とはどこの世界の存在なのか

内田樹「街場のメディア論」(光文社新書)を読んでいて、以下の文章が腑に落ちた。

 仕事について考えるときに、ことの順番を間違えてはいけないというのはそのことです。「自分が何をしたいか」「自分には何ができると思っているか」には副次的な意味しかありません。こと生得的才能に関しては、自己評価ほど当てにならないものはありません。
 奇妙な話ですが、天才的な素質に生まれついた人は、それが周囲の人から見てどれほど例外的に卓越した能力であっても、自分はそれを「あまりたいしたことないものだ」と思っています。

(p.25)

私は以前から「自分ほどあてにならないものはない」と考えていたので、それに裏付けをあたえられたような気分になった。また、以前別の記事で「何かを達成した人は、例えそれに困難が伴ってもすぐに忘れてしまい、他人が同じことに取り組むと「簡単だよ」なんて言ってしまう」と主張したが、それも人間の“奇妙な“性質のようである。

“自分“とは、考えれば考えるほど奇妙な存在である。だからたぶん私は物心ついたころから自分について考えている。最初の疑問は「何故自分は他者ではないのか」である。私は最近このことに「引き剥がせない自分」と名付けた。ガムテープで、がっちり貼り付けられた自己である。つまりそれは思い切り引っ張ったりすれば、取れる、ダメージを覚悟すれば剥がれる、という新しいイメージの追加であった。たぶん最近体外離脱とかそういうのを知った影響もある。私が「引き剥がせない」を使ったのは体外離脱を知るより前だったと記憶するが、別に原因と結果が入れ替わったって、私は構わない。特に思考のような、何の客観性のないものに関しては。

私たちはガムテープでがっちり貼りつけられた物を見たら、まず剥がしたいという衝動にかられるが、同じように自己を剥がしたいと思っている、と私は考えている。つまりそれは「本当の自分を知りたい」とか、そういう欲求によって表れる。私たちはつまり、この通常の状態では、自分を知ることなんて不可能だということを少なくとも無意識レベルでは理解しているのだ。

それで、文章にするとたぶん関係ないことだが、私はふと、小説でもブログでも、おそらく文字を綴ることがあまり好きではないことに、気づきつつある。でもそう感じる私も、あてにはならない。