意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

前回の記事が700つ目でした

私はこのブログのポリシーとして記事をいくつ更新したとか読者が何人だとか、とにかく何かを達成したみたいなことは書かないことにしている。そういうのは読んでる側からすれば別にどうでも良いことであり、それよりも読んで欲しいことが幸い私の中にあるからだ。何かの検索とかで初めてこのブログに来た人がいて、しかしそのうち99パーセントはそのたまたまヒットしたページしか見ずに立ち去るだろう。そのたまたまのページが、
「700記事更新おめでとう! 面倒くさがりでなんでも三日坊主の私がよくやった!」
みたいなのだと切ない。そういうのはね、検索の上位にはまずこないんですよという理屈もあるのだろうが、私が主張したいのはそういう趣旨ではなく、つまり頭から尻尾まですべて「顔」にしたいのである。

私は昨日の記事を更新したときに、更新完了画面にいつも数字が並ぶのだが、私はいつも自分の連続更新が途切れていないか、それをチェックするくらいしか見ないのに、そのときは他の数字も見てしまい、ちょうど700記事投稿したことに気づいた。しかし上記の理由から何か特別な気分にはならず、ただTwitterに、その旨をぼそりとつぶやいた。

すると少し経ってから三森さんからリプライがつき、そこには祝福のメッセージと
「あなたは自分のことばかり書いているから、さながら合わせ鏡が左右合わせで700並んだ、といった感じだろうか」
という洒落たコメントをつけてくれた。私は
「そういえば以前合わせ鏡について、書いたことがあるような気がします」
と返すと即座に
「それは2014年12月××日ですね」
と来たので驚いた。別に検索をかければすぐにわかる話で、私も10秒かからず目的の記事にたどり着いた。しかし三森さんのレスポンスのよさに、数字に対する揺るぎない自信のようなものを感じた。
「確かに書いてますね。読み返してみると、旅行中に書いたせいなのか、元からなのか、ずいぶん肩に力が入っているようだ」
「そんなこと、過去の弓岡さんに言ったら、怒りますよ」
M(以下三森さんのことをMに置き換えます。特に意味はなし)は、まだ合わせ鏡のアイディアを引っ張っているようだ。

実は私は合わせ鏡の記事については、よく覚えていた。旅行というのは東京ディズニーランドのことで、その日は午後から雨が降って、傘を差しても無意味なくらいの強烈な雨で、その中を歩き回ったらすっかり靴がびしょ濡れになり、宿で妻がドライヤーで乾かした。私はその横で記事を更新した。子供たちはとっくに寝ていた。翌日靴は乾いたが、最初のアトラクションに乗った後で底がべろりと剥がれた。そのときは父が同行していたが、父の靴は平気だった。父は昨日は一万七千歩歩いていた。

「ところで弓岡さん、「合わせ鏡」についてはよくご存知のようですが、鏡について書かれた記事のことはおぼえていますか?」
「どうだろう? 書いたかもしれない」
「あなたはそこで虚構というのは、鏡のようなもので、左右が反転しているものだ、とおっしゃってました。つまり右利きの作家が書かれた登場人物は、特別な断りがない限り、みんな左利きになってしまう、と。だから、例えばブログの内容の虚実を確かめたかったら、まず登場人物が利き腕を確認してみると良いと書かれていました」
「待ってください。本当に僕の記事ですか? 全然おぼえてない」
「でも、虚実にこだわるのは、本質的にはくだらないことだって、締めてました。いかにもあなたの書きそうなことじゃありません?」
「確かに。じゃあ書いたんだ」
「合わせてあなたは、桑田佳祐の「鏡」という歌を取り上げていました。学生時代によく聞いた歌だと言ってました。歌詞に対する洞察も興味深かったです」
「たしかに僕は十代の頃、その歌を繰り返し聞きました。しかし、私は歌の類はブログでは取り上げないことにしているんです。歌詞の引用とかが問題になって、記事自体を削除されたりしたのを目にしたものですから」
「私は著作権などについてはたびたびブログで取り上げています。そういうのは、ちゃんと作法にのっとれば、ほぼ大丈夫なんですよ。あなたももっと勉強なさったら」
「あなたの記事はよく知っています。いつも参考にさせてもらっていますよ」
「それじゃあ覚えているでしょう?」
「残念ながら。「鏡」というタイトルなんですか?」
「そうやって人に頼ってばかりいないで、少しはご自分で調べたほうがいいですよ。もっと多くの人に役立つ記事も、たまには書いたほうがいいですよ」

Mとのやり取りはそこで終わった。