意味をあたえる

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斉藤斎藤とNHKの限界「視聴者は因果がないと納得しないのか」

昨日か一昨日のNHKの「ようこそ先輩という番組で、これは毎回ジャンル関係なく人生の成功者を呼んでその人が卒業した小学校に派遣し、自分の成功談を語らせる番組なのです。」斉藤斎藤歌人であり、私は今年になってから他の人のブログの影響で短歌を詠むようになって、それまでは小説小説小説たまに詩という感じだった。

それで私は最初はあまり短歌っぽく書きたくないから、指南書の類は読まなかったが、偶然目にした斉藤斎藤の歌があまりにすばらしかったから、歌集を購入し、そうしたらそれはあまり売れている雰囲気もないのに、突然
「来週の「ようこそ先輩」は斉藤斎藤です」
とか言うもんだから、私は
「おお」
と思った。もしこの人の名が斉藤なんとか、という普通っぽい名前なら
「あれ? 歌人の斉藤さんかな? それとも建築家のほうかな?」
とか思うだろうが、斉藤斎藤だから間違えようがなかった。斉藤斎藤について以前書いた記事はこちら。

それで番組を見たのだが、あまり面白くはなかった。そもそもNHKは短歌が苦手なのだろう。短歌というか文学全体というか、芸術全体というか。その証拠に、
斉藤斎藤さんはこんなヘンテコな人」
という紹介で以前斉藤が短歌の番組でふざけた歌を披露したら、司会者の人が大真面目に、
「これは何が言いたいんですか?」
と質問していた。斉藤は困っていた。言いたいことなんか存在しないし、かろうじてあってもそう簡単には表明なんか出来ないからだ。言いたいことがあるなら、それを言えばいいだけで、わざわざ短歌なんか書いたりしない。よく政治家や芸能人の人が、
「もしもお金持ちになりたかったらこんな仕事でなくて、もっと楽に稼げる仕事するよ」
と言ったりするが、それと同じような感じ、と書こうとしたがあまり同じでもなかった。おそらくこの「何が言いたいんですか?」と質問した人も、それなりに短歌に大して腕のある人で、本当はそんな質問がナンセンスだということは理解しているが、番組というか、局の空気に逆らえなかったのだろう。

しかしこの「言いたいこと信仰」はいつまで続くのか、小学校とかでさんざん
「作者の言いたいことは?」
「相手の気持ちを考えよう」
とかやらされるせいで、すっかり洗脳されてしまうのだ。そういう人は前にも書いたけど、
「ブログで広告貼らずに無償で書いている人がいるが、そういうのは変わり者だ」
とか言ったりする。私は決して変わり者なんかではないし、また、書くことが好きでもない。なんでも言語化できると思ったら大間違いで、そういうものを無理に言語化すると、最初の一文字目から本来のものからずれていく。

それで学校へ行くからとわざわざスーツを身にまとい、髭まで剃った斉藤は、やはり学校とNHKの狙いにまんまと取り込まれてしまった。VTRでは
「子供のころは作文が好きではなかった斉藤さん、大学を卒業後もアルバイトを転々とします」
というナレーションとともに子供時代の写真が載せられる。そして
「ところがある日、運命の歌に出会います」
という言葉とともに岩波新書の表紙がぱぱーん、と出てくる。そこで紹介された歌はもちろんすごい、
「ああ、斉藤斎藤のルーツだな」
と私は感動した。決して、鉄棒から逆さまにぶら下がった斉藤斎藤少年がルーツではない。

だけれども因果がなければ視聴者は納得しない、とNHKは思っている。暗い子供時代とかがなければ短歌など書けないと思っている。または視聴者自身もそういう順序が整っていないと、視聴者が離れると思っている。

斉藤斎藤は授業のいちばん最初にストップウォッチを持って教室に入り、
「おはようございます」
と頭を下げてから、黒板のほうを向いて、あまり手が汚れないよう注意しながらチョークを持って、ひらがなで
「さいとうさいとう」
と書いた。「う」がウナギ屋みたいに下に向かってうにょーんと伸びたから、斉藤はウナギが好きなのかもしれない。それでまたみんなのほうに向き直って、ストップウォッチを押し、
「これはストップウォッチです」
と言った。私は斉藤がそういうまでストップウォッチだとは思わず、撮影の機材かなにかだと思った。そして
「今私が教室に入るタイミングにストップウォッチを押し、止めたら32.35秒でした。このおよそ30秒で見た光景について作文にしなさい」
と生徒たちに指示した。秒数については、32秒だったが、斉藤としては31秒なら愉快だな、と思った。

それで生徒たちはめいめいに見たものを書き、それを読み上げさせたり、斉藤が自分で読んだりしたが、その中に
「私が見たのは棚と、時計と、人間でした」
というのがあって、それが傑作だった。もし番組の主旨がナイスな短歌をつくる、というものならそれで十分なのに、やはり番組側はそれでは納得できない。スタートはゼロかそれに近い状態で、そこから試行錯誤を経て苦難を乗り越え、最高のものをつくらないと、すんなり受け入れられない。だからまず何をしたのかと言えば、斉藤がストップウォッチで時間を計っているあいだに教室の隅ではカメラがその様子を撮影していて、それから教壇の上にでかいモニターを置いて映像を流し、
「これは今私が時間を計っていたときの様子です。今度はこれを見ながら書きましょう」
と指示した。関係ないが教壇というのが生徒の使っている机と同じ物で、私が学生のときは教壇は生徒のものよりも立派な、大きいものだったから私は違和感を覚えた。誰かが
「生徒も教師も同じ人間であるから、同じ物を使うべき、違う机だとそこから心理的距離ができてしまう」
と言ったのだろうか。比較的小さい、生徒と同じサイズの机に大型モニターが載せられるの不安定で、なんとなく頼りなかった。

私は映像を見ながら作文をする試みに、最初は面白そうだと思ったが、それで書かれたものは大して面白くなかった。こちらでお膳立てしてしまうと生徒が構えて、考える余裕が生まれてしまうからではないかと思った。生徒は、特に6年生はもうベテランだから、
「自由に書け」
と言われてもその自由が指す内容を敏感に察知する。だから本当は自由でもなんでもない。だけれども突然現れたストップウォッチを持った男が、
「ここまで30秒、今見たものを書きなさい」
と言ってきたから、生徒は戸惑い、自分の中にある言葉を出さざるを得なかった。もちろん器用な生徒は
「一体どんな先生が来るのだろう、と緊張していました」
などと、うまい具合に拡張して文字を埋める。しかし「見たこと」なのだから、私からしたら落第である。だけれども何人かの生徒は拡張がうまくいかなかったから、それだけオリジナルに近づいた。これは私の普段から提唱している
「考えずに書く、素早く書く」
を裏付ける内容と思い、私は満足した。

しかしこんなにあっさり大作ができてしまうと多くの人は理解できないから、結局その後
「今まででいちばん印象に残ったことを歌に」
なんてやったりする。そんなことしたって卒業文集みたいなのが集まるだけなのに。

悲しいことに自習予告では脱出ゲームの人が出るらしく
「オリジナルのゲームをつくろう!」
とかやっててそっちのほうが全然楽しそうだった。