意味をあたえる

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國分功一郎「暇と退屈の倫理学 増補新版」太田出版

先日(チェコ好き)さんの上記の記事で表題の本が面白そうだったので読んでみた。ところで私は以前(チェコ好き)さんの名前についてその括弧にかなり深い意味があると読みとったので、今も名前を記すときにはちゃんと括弧を忘れないよう気を付けようと思ったが、しかし「さん」という敬称は括弧の中に入れるべきなのか迷った。しかしもし入れてしまったらさかなクンみたいなカテゴリーになると思ったから、一度入れたがやはり止した。

「暇と退屈の倫理学」は、前半部は結構面白かったが、途中から「ん?」と思う場面が増えた。二章か三章がとくに退屈で、読むのを止めようかと思ったが、そうしたらまた面白くなってきたから止めなかった。会社や家でも結構読んだ。会社では後輩が楽天カードを作る云々を先輩と話して、うるさくてなかなか集中できなかった。どうしてカード一枚を作るだけなのに、あそこまで賑やかにできるのか、私には理解できかねた。
「これで、俺も今日から楽天カードマンです!」
と後輩は格好つけていたが、こんなに分厚い本を読む私のほうが、数倍格好良かった。「暇と退屈の倫理学」は全部で430ページくらいあるのです。

私が途中から感じた「ん?」という感覚は筆者が引用した哲学者の著書に対し、
「ここではこのように書かれているが、これは間違い。どうしてこのような間違いをおかしてしまうのか」
みたいな書き方が散見され、私はちょっとリスペクトが足りないのでは? と思った。もちろん私はそれらの哲学書を一冊も読んでいないから、間違っていると言われればもうそれに従うしかないのだが、哲学者のほうだって
「そこの部分だけ取り出してそんな風に解釈されれば、俺だって違うって思うよー」
とか反論したくなるかもしれない。あるいは、この本は普段哲学とかその類の専門書に縁のない一般の読者に向けて書かれていて、それは冒頭の「はじめに」の一人称が「俺」であることからもわかるが、そうなるとある程度乱暴に、大ざっぱになってしまうのは仕方がないのかもしれない。そうしないといつまでも結論にたどり着かないから。だから私は逆にこれは結論に対する執着が強すぎて、それが哲学者に対する曲解につながっているのではないか、と私は読みながら仮説立てた。あるいは私は普段は小説、しかもかなり偏ったものを読んでいるから、いつのまにか「結論」に対するアレルギーができてしまったのかもしれない。どこの哲学者の言葉が忘れたが、本を書くときには書き始めるときと書き終わるときは、その間になんやかや色んな影響を受けるから、同じ文体で書くことは不可能だ、というのがあって、だから先に結論があると、どうしてもそこからずれる。

本の後半にさしかかるとしきりに
「私たちは退屈の第二形式を生きている」
という言葉が出てくるが、これは退屈を三つのカテゴリーに分け、それはハイデッガーのアイディアなのだが、1と3は同じものである、と筆者は主張し、1、3は奴隷の状態だからそこに陥らないようにしよう、と結論づけている。読めば確かにその通りなのだが、私が疑問なのはじゃあどうしてわざわざ3つに分けたのか、そしてなぜハイデッガーはそんな単純なことに気づかなかったのか、ということで、そういう疑問がやがて筆者に対する不信感に変わってしまう。

そういうわけで私はハイデガーを応援したくなったので、昨日本屋に赴き、ちょうど光文社文庫ハイデガーが出ていたので、読んでみようと思い買った。全8巻出るらしい。