意味をあたえる

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趣味を超える

今朝の長田さんの記事を読み、趣味について考えたことを以下に書きたい。

私は自分では無趣味の人間だと思っていて、何年か前にフットサルを継続的にやっていたときは、
「これは趣味と呼べるのかもしれない」
と、私はむしろそのことをポジティブにとらえたが、やがてやらなくなった。人数がいつもぎりぎりで、
(今日は10人揃うかなー)
とか、あと屋外だったから
(雨大丈夫かなあ)
とかヤキモキするのに疲れたからである。そこのフットサル場は雨が降ると半額になったが、小雨程度では全額だった。あと雪とか台風とか明らかにできない場合は、スタッフがなんの断りもなくバックれた。そういうのに遭遇すると
「ふざけんな」
とか思ってしまうが、後から思うとそれくらい緩いほうがこちらも気楽だった。

それで私は再び無趣味であるのだが、昔の無趣味だったときにそのことを友達に表明したら、大変驚かれた。「えっ!?」

その人からすると私の趣味は読書であった。あとはそのときはホームページをやったり、バンドなどもやっていたから、私は大変多趣味な人であった。しかし当の私からするとそれらはすべて趣味ではなかった。だからと言ってプロを目指すとか自分を高めるとか、そういう意識もなかった。

この感覚の違いはなんなのか。

昨日の記事で紹介した「暇と退屈の倫理学」(太田出版)の中で産業革命によって資本家と労働者、という立場の違いが生まれると最初は1日の労働時間は16時間とかだった、そこに1日8時間労働を導入したのはアメリカの自動車メーカーのフォードであった、しかしフォードは労働者の心身を気遣って労働時間を短縮したのではなく、単に短い時間に集中させたほうが効率が良いと判断したためであった、その証拠に会社は従業員の余暇の動向をスパイに探らせた、とあった。スパイに探らせるのは、あまりに休みに派手なことをして、業務に支障が出たら本末転倒だからである。だから私たちは「休みが、休みが」と気軽に言うが、本来それは業務上のひとつのイベントに過ぎず、「休み」も仕事の一部なのである。

そういえば私は四歳のころから幼稚園に通いだしだが、それほど経たないうちから夏休みや冬休みや春休みに対する違和感を持っていた。私は家に対する帰属意識が強いのか、幼稚園や学校に行くというのが特別なことであるという感覚が抜けず、休みと呼ばれる期間こそが本来の私の活動である、という認識を持っていた。つまり私は余暇を埋めるために幼稚園や学校へ行っていた。今現在私はサラリーマンが板について、だいぶ洗脳され、今の生活に不自然さをあまり感じなくなってしまったが、その当時の感覚はまだ残っているからかろうじて踏みとどまっている。だから休暇というのは自由とはかけ離れている。

私はちゃんと調べていないし、また調べる気もないから真偽は違うのだろうが、趣味という概念もフォードの提唱した余暇とセットで生まれたのではないかと考える。余暇に推奨される活動が趣味である。だからそれは気晴らしの範疇で行われ、あまりのめり込んではならず、商業的成功なんてもっての他である。成功したらもう仕事なんかやってられっかってなっちゃうから。逆にお小遣い稼ぎなら歓迎である。「これしか稼げない」という意識が刷り込まれれば、会社に尽くすしかないという発想になるからである。

「趣味」という言葉に生半可なイメージがつくのはそのためではないだろうか。私はつまり生半可な気持ちでやっているわけではなかった。いや、生半可でもなんでも、自分の行っていることが仕事に対して「従」の位置にとどまってしまうのに我慢できなかったのである。特に商業的成功を目指す人ならば、「趣味」なんて軽々しく言ってはならない。

しかしそこからさらに一歩踏み込むと、私は商業的成功や自分を高めるとかよりも、もっと奉仕したい。私の書く行為によって文章の側が影響され、拡張してほしい。それがゆくゆくは人類の発展や世界平和につながると望ましい。だから趣味と言われれば趣味でも良い。