意味をあたえる

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サンタさんは信じている人のところにしかこない

※さっき「ふくらんでいる」に投稿した記事ですが、よく書けたのでこちらに転載します。クリスマススペシャルです。


昼間にTwitterを見ていたらズイショさんがサンタさんのことについて含蓄のあることをつぶやいておられて、私がサンタも幽霊もその他も、いると思えばいる、というスタンスであることを再確認した。

前に苫米地英人の本を読んでいたら、比叡山かどこかのかなり過酷な修行で、そこにいる悪霊だか地縛霊だかを、法力でとっちめる、というのがあって、僧たちが集団で乗り込むのだが、その中には悪い霊に負けて実際に命を落とす人もいるらしい。こうして私が頼りない記憶で書いてしまうと、思い込みって恐ろしいね、と結論づけられてスルーされてしまうのだが、そうやってスルーしてしまう人は、その恐ろしさの、たぶん半分も理解できていない。そもそもなんで思いこみで死ななきゃならんのか、その辺がそもそも矛盾しているのである。例えば今はいろんな映画があって、私たちが手に触れているものだって、本当に存在しているのかはわからない、ということを平気で言ってのけるが、言うほど単純な話ではない。私は数日前からハイデガーの「存在と時間」という本を読んでいるが、「現存在を理解するためには存在論的に理解する」とか書いてあってちんぷんかんぷんなのである。だからそういった複雑ながら論理を積み重ねていけば、サンタは確実にいる。

私が子供のときにはサンタはいた。なぜいたのかと言えば、父と母が
「サンタは信じている人のところにしか来ない」
と言ったからである。私の父と母は真面目な人間で自分で自分らのことを
「私たちは責任感が強い」
と評価するくらいの人だから、サンタのふりをするなんてありえない、と私は思っていた。とは言うものの段々と私の周りの人たちのサンタはどんどん暴かれていき、それで済めばいいが、そういう人たちはあばかれた腹いせで周りのサンタを信じている人に向かって
「サンタなんかいないよ、お父さんとお母さんがサンタのふりをしてるだけだよ」
と吹聴するのである。私にもその魔の手がのびてきた。私の家の向かいには悪い姉妹が住んでいて、その人たちは二人とも私よりも年上だから厄介だった。二人は私が就学前などには二階の部屋のカーテンを閉め、そこで私を手錠につないだりしたこともあった。しかし良い面もあり、良い面とは一度だけ母の日に、私と一緒にプレゼントを作ってくれ、さらに私を家の裏に隠れさせ、自分たちは私の母を呼び、そうして驚かせてくれたりした。

しかしそのある冬の日は悪い姉妹で、私に対して二人がかりで
「サンタさんは、お父さんとお母さんがサンタさんのふりをしてるだけだよ」
と私に吹き込んできた。全員に敬称をつけて呼ぶのが小賢しかった。姉妹の家は庭が全部コンクリートになっていて、真ん中に亀裂が走っていた。まさに異端の人の家という趣だった。そこで私は改宗を求められたのである。しかしやはりそこで私は負けることなく
「でもいると思うよ」
と答えたので姉妹も諦めた。

自分が人の親になって思うのは、子供にサンタを信じさせるのは至難の業ということです。私も妻もそういうことを徹底できない人間なので、上の子のときは妻の軽自動車のトランクにプレゼントを置きっぱなしにしていたら、まんまと発見されてしまった。せめてセダンならば少なくとも後部座席から見つかることもなかったが、クリスマスのためにクラウンだのをレンタルするわけにもいかない。そのときは
「サンタがフライングした」
と苦しい言い訳をした。子供はその説明を信じたが、プレゼントが欲しいがために、信じたふりをしたのかもしれない。信じたふりであっても、何パーセントかは、
「そういうこともあるかもな」
とか思ったかもしれない。下の子はかなり論理が得意なタイプなので、私が要望されたプレゼントを却下したときには、
「あなたは判断する立場にない。ちゃんとサンタに訊いてみてくれ」
と言われ閉口した。まるで親である私の方が手玉に取られているようだった。また、コンタクトの方法についてもしつこく訊かれ、
「サンタの連絡というのは、普段私たちがイメージする連絡方法とはまったく違った次元の方法で、口で説明することは不可能だし目に見えるわけでもない。ただし大人になるとわかる」
と説明したら、
「は?」
と言われた。