意味をあたえる

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山下澄人「壁抜けの谷」

表題の小説は「アンデル」という雑誌に連載されているもので、「アンデル」は去年の一月に創刊された文芸誌で、「アンデル」という名称は「編んでる」とか「and L」とかの意味を含むらしい。LとはランゲージのLであった。その創刊号から山下澄人は連載しているということを、昨日私は知ったので、早速創刊号を購入した。電子書籍で216円だったので気軽に購入できた。これまで山下澄人を読んだことのないという人も、読んでみるといいと思う。

内容としてはいつもの山下という感じで、私は最近山下澄人の小説はかなりいい加減に読んでいる。世の中で一般的に「面白い」と称される小説は、けっこう気を入れて読まねばならず、例えば登場人物の名前や関係性をきちんと把握していないと、案外面白くない。そういう面倒くささを、本好きの人と言うのは何の疑念も抱かずにすんなりと受け入れてけろっとした顔をしている。というかそういう面倒くささをしっかり自分の支配下に置いている自分がすごいという優越感もあるのかもしれない。私は、私の周りが本を読まない人ばかりだからなのかもしれないが、本という物体を手にしていれば、中身など関係なく
「すごいね」とか
「頭いいね」とか
ほめられる。それに対し私はもちろん優越感を抱き、できることならこの周りの人たちは、この先本など一冊も読まずに終生バカでいてくれたら、と思う。しかし一方でただ自分が気持ちよいと思っていることをしているだけなのに、すごい、とか逆に馬鹿にされているというか、この差別は何なんだろうと思う。それは
「自分を向上させるために」
とかふざけた理由で本を読み、そういう不純な動機を恥ずかしげもなく披露するから、世間の本に興味ない人々が勘違いし、疎外するのだ。

そういう閉鎖的な“読書行為“に風穴を開ける力が、山下澄人の小説にあるのではないか、と思う。引用。

「らしい、気がする、ばっかりで話の芯がつかみにくい」

上記のように鍵括弧で囲まれていると、誰かのセリフのように読み手は受けとるわけだが、実はこれはセリフではなく、この前段落等で、「○○らしい」という言い回しが小学生の作文のように連続で出てくるから、作者が書きながら思ったことを、鍵括弧で囲ったのだ。なぜ「らしい」ばかりかと言うと、夢の話と現実の話がごっちゃになっていて、それを相手に

「夢だっけ?」

とか確認するのだが、それも夢の中だったりするから、わけがわからないのだ。山下澄人の別の小説だと、主人公が三人出てきて、視点がかわりばんこになるのだが、全員一人称が

「私」

だから、誰の話なのか途中で混乱する。しかも赤ちゃんとかを「その人」とか書いたりするから尚混乱する。私は読み始めた頃は、割と神経質にこの段落は、Aさん、みたいな確認作業を読み終わってからしたが、やがてやらなくなった。たぶん書いている方も

「これ誰だっけー」

と思いながら書いているに違いない。


それで「らしいばっかで芯がない」という作者の感想は、そのままだとおさまりがつかないから、次の行では長谷川という男が言ったことになっている。私が思うに、しかし「らしいばっか」と書いた瞬間は、誰のセリフでもなく、書いてから

「誰のセリフにすっかー」

と決めたに違いない。考えながら書かれた話というのは、読者にもそういう思考の痕跡を感じさせ、時には同じように考えることを強要するが、書きながら考えられた話なら、読む方もだいぶ気楽だ。読書は気楽でもいいのだ。


似た話で保坂和志カフカの「城」の中で、Kが酒場で電話をかけるシーンがあるが、Kがまさに電話をかけようとする瞬間まで、部屋の中には電話はなかった、と言っていて、なかった、というのはカフカは電話があると考えていなかったという意味で、そういうことができるのが小説の強み、と言っていた。映画なら、セット、というものが最初に組まれるから電話をかけようと思って初めて電話が登場するというのは、不自然きわまりないからである。


※引用は中央公論新社「アンデル」創刊号より。

※誌名「アンデル」は&L、でLはランゲージ、と書きましたが、正しくは「○○&Literature(○○と文学)」です。