意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

文章の完成度

昨日の「ふくらんでいる」で、ズイショさんが「文章の完成度」について書いていて面白かったので、私も思うところを書こうと思う。


記事の中でズイショさんは、
「「ふくらんでいる」の参加者は別に自分のブログを持っていて、なかなか書く時間がとれないと思うが、そういうときは文の完成度を下げて投稿してほしい」
と述べていて、そうだと思った。おそらく私以外の参加者は「ふくらんでいる」にふさわしい記事、ふくらんでいるっぽいものを書こうとしているのかもしれないが、私が書くときはだいたい他に誰も投稿しないで制限時間ギリギリか、過ぎてしまっているときなので、ふさわしいとか、考えている余裕はない。昼間「意味をあたえる」に書こうとぼんやり考えていたことを、そっちに回すこともあった。今は逆にズイショさんや他の人が熱心に投稿されているので、逆にふくらんでいるに書こうと思ったものをこちらに書いて、その日をやりすごすこともある。今書いているものも、最初の段落とリンクを消せば、そのまま向こうでも使える。

どうしてズイショさんに対して特別な義理やリスペクトもないのに、ここまで律儀に48時間のリミットを守ろうとするのか、私でも不思議だ。48時間のリミットとは、「ふくらんでいる」では、48時間以内に、誰かしらが更新しなければいけないルールで、このルールのよくできたところは、48時間以内なら、誰が何回か書こうが構わないのである。だから、月によっては
「私私私私」
みたいになることもあり、そういうのを問題視する声もあったが、私は主催者ではないから、特にそれに対して意見を持たなかった。ズイショさんも特に何も言わなかった。

そういえば年末にTwitterで少しやりとりをし、そのときにズイショさんは、
「あまり自分から「ああしよう」「こうしよう」とは言いたくない。みんなで好きにしてほしい」
ということを述べていて、それは元来の自分の性格だ、という風に読めたので私は
「じゃあ来年は俺が仕切ってみようか」
と、ちらと思った。ところが彼は年が明けたら、植木に水をやるように、熱心に記事を投稿するようになった。私の言葉になにかしら感じるものがあったのかもしれない。私がどんなことを言ったのかは、もう忘れた。

話は変わるが、「文章の完成度」とは何を指すのだろう。私はそれは多くの場合、書き手の自己満足だと認識している。自己満足だと良い風にも取れるので言い換えると自慰行為である。私は昔漫画を書いて、それを仲の良い友達に読んでもらうという遊びをしていたが、今思えばとても幸福なことに、まさに私の目の前で友達は私の作品を読んだ。友達とは二人いたが、私の漫画はひとつなので、読んでいない方が退屈しないよう、漫画とセットで裏話的なエッセイを用意した。友達が私の目の前で読んだ理由は、友達の部屋が狭いせいもあった。床の半分だけ畳が敷いてあり板の床の方にタンスがあった。タンスと壁の間に広末涼子のポスターが貼ってあった。胸元が開いたキャミソールを着用した広末が、やや前屈みになっているポスターだった。私はそれを見て
「角度によっては乳首が見えるかもしれない」
と上方向から広末の胸を見て、
「二次元だからありえない」
と友人がつっこむのがいつものやり取りだった。部屋は道路に面していて、道路はすぐに交差点にぶつかって信号があり、磨り硝子が赤くなったり青くなったりした。

私はそのように、自分の書いたものについて、逐一読者の反応を伺うことができたが、そのうちに自分の面白いと思った箇所と、友達が面白がる箇所が異なることに気づいた。私は自信のあるところについては、読み終わった後に
「ここが読みどころなのだが」
と指摘したが、
「へー」
みたいな反応しかなかった。私は主観と客観の相違について理解した。

上記のような話は、いたるところで聞く。多くの人は、主観と客観の誤差を縮めていくのが上達の道、と解釈するが、私の発想は逆で、つまり主観などあてにしないことにした。自分の面白いが通じないのなら、特に面白く書く必要はないということだ。

例えば誤字脱字については、できれば少ない方が親切な文章であるが、私は特に読者からお金をとっているわけでもないので校正の作業は読者に丸投げし、読者は校正代を払って私の記事を読む、という認識でやっている。つまり私の記事は見方によっては有料なのである。

しかしそれ以外の例えば「である」を「でした」に替えるとか、段落を入れ替える、というような作業は、結局自分の面白さがあてにならない以上、やれば良くなる、とは言い切れないのである。そういう一か八かの賭けみたいなことをするくらいなら、少しでも書く文字数を増やした方が、読者の面白さの基準にヒットする確率が上がるだろう。