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意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

文章の型について、逆再生バージョン

最近他のブログで
「毎日ブログを更新するには、文章の型を決めるのが良い」
という主張を見かけ、ほとんど脊髄反射のように
「型なんか決めたら、すぐに飽きてしまってとても毎日書くなんて無理だ」
と思考した。私は型、と聞いてクッキーの型のようなものを想像し、するとクッキーのような記事ばかりになってしまうぢゃあないか、と憤慨したのである。例えばクッキーは美味しいから、一週間食べ続けることは可能かもしれないが、一年とかは無理だ。ブログを毎日更新、というのが一体どのくらいの期間を指すのかは知らないが、おそらく3ヶ月とかなのだろう。3ヶ月をクッキーのみで過ごすのは厳しい。先ほど私は一週間なら可能、と書いたが、よほどの味じゃなければ一週間でもきつい。美味しい味だと尚つらい。だから、ほどほどの美味しさの、白米のような記事を書かないと続けられない。

この前保坂和志の文章を自動で吐き出すTwitterのアカウントを見たら、
「文体、というのは書き手の呼吸とか躊躇いとか、そういうのを指す」
とあって、私はそれをどこかで読んだから知っていたが、そういう発想を拡張していけば、「文章の型」というものも、もっと身体的なものになるのかもしれない、私はそういえば毎日こうやってブログの記事を飽きもせず書いているが、99㌫の記事はスマホから投稿していて、スマホなので仰向けに寝そべりながら書くことが多い。私は腰があまり丈夫でないので、床に座るという行為が長時間できず、しかも私の家のパソコンのある部屋は当然私の部屋だが、そこは畳の八畳間なので、パソコンはちゃぶ台の上に乗っている。ちゃぶ台というか、私は脚の短いテーブルの正式名称が出てこないので、便宜的にちゃぶ台、と使った。

昔読んだ村上春樹のエッセイの中で「チャンドラー方式」というのがあって、これはレイモンド・チャンドラーという小説家が小説を書くときの心構えを村上春樹が模したもので、チャンドラーは毎日決められた時間、二時間とか三時間必ず机に向かうことに決めていて、ここだけ読むと受験生の心がけみたいだが、受験生と違うのは書いても書かなくても必ず決めた時間は机に向かうということであり、書ける日はもちろん書くが、書けない日は、ただ座ってぼうっとするだけで、その最中に音楽を聴くとか、なにか別のことをすることも許されない。そうやって「何もしなかった時間」というのが、新しい文章の呼び水になるそうだ。こうした習慣こそ、文章の型というのではないか。

このように私は文章の型というのは、書かれた文字の配置だとか語尾の形態なのではなく、もっと身体的なものと考えている。

※本日の記事は段落ごとに後ろから書いていった。つまりこの記述が一番最初になされており、上に書かれた段落ほど後から書いたものである。