意味をあたえる

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ハイデガー「存在と時間1」

私は小説でもその他でも、文庫にはたいてい巻末に解説がくっついているが、だいたい飛ばしてしまう。その理由をあらためて考えてみると、本編との文体というかリズムというか温度が違うからではないか。小説とはどんなに面白いものでも、次から次に読めるものではないし(少なくとも私にとっては)、そういうものの最後に「読んでも読まなくともいいもの」というテンションのものが付けられても、とても読み通す気は起きない。しかも内容と言えば「作者はなん年に生まれ...」という具合なのだから、ますます読む意味がない。今はウィキペディアとかがあるんだし。書く方だって消化試合のつもりでやっているのかもしれない。そういえば
「小説家同士のエール交換のために解説がある」
みたいなのをどこかで読んだこともある。なんとかさんに前書いて貰ったから、みたいな馴れ合いだったら、いよいよ読む価値はない。

ここまで書いて、私の言う「解説」は小説のそれであることに気づいた。

話のついでに書くが、さらに作者本人のあとがきに、「ありがとうございます」というのも気にくわない。その相手は編集とか助言をくれた人に向けられたものだが、そういう人には直接会えるのだから、面と向かって礼を言えばいい。それとも編集業界には、あとがきに何度名前が出たかでハクがつくとかあるのだろうか。もしそうなら悪習なのでやめたほうがいい。私も小説を書くから書き終わった後に、誰彼かまわずお礼を言いたくなったり、完成までどれだけ苦労したかを綴りたくなるが、あれは書き終わった直後の普通ではないテンションの所行なので、後から
「良かった」
と思うことはまずない。どうしても補足しなければならないことを、極めて事務的に伝えるのが本来の「あとがき」だろう。私は楽屋オチとかドキュメントとか、そういうものに対しては厳しい考えを持っている。

それで最近になってよく考えていることをここで披露するが、「ありがとう」という言葉も、もはや謝意を伝えるものではなくなっている。常日頃使う「ありがとう」は単なる挨拶とか、人間関係を円滑にするためのツールとかそういうものだし、そうだとしたらいよいよ普段のこの文章で
「いつも読んでくださり、ありがとうございます」
という行為も、全く中身のないものとなる。私は「ありがとう」と五文字無駄に消費するのなら、その文字数でもっと面白いことを書くことが、結果的な読者に対する感謝とか、リスペクトになると思う。読者とは友達とか同僚じゃないので、挨拶はぜんぶ余計だ。

とは言うものの、さすがにコメントなどで
「面白いです」
と言われれば、私のほうも励みになってしまうこともあるので、思わず
「ありがとうございます」
と言いたくなってしまうが、そこを踏みとどまってどうにかその言葉を使わずに、コメントをくれた人にいい気持ちになってもらうか、などと頭をひねる。一言で済むことに時間をかけるなんて、今のご時世ではナンセンスなのだろうが、最終的にはその人のために時間を消費したという行為が、むしろ今のご時世では感謝の行為となるのではないか。伝わらなければ意味はない、という考えもあるだろうが、そういう人は「伝える、とはすべてアピールであり、必ずしも相手のための行動とはいえない」ということについて考えてほしい。

話を戻すが、私が過去にいちばん面白かった解説は、手塚治虫火の鳥」の、角川文庫版に収録された荒俣宏の解説である。荒俣宏手塚治虫の客観性のすごさについて述べていて、たしか
「宇宙から見下ろすような」
という具合の文があり、私は実際に宇宙に連れて行ってもらったような感覚で、その解説を何度も読んだ。分析すると、漫画の解説で文章だから、良いメリハリがついたのかもしれない。そう考えると、小説の解説は四コマ漫画などにすると良さそうだ。

ハイデガー存在と時間」は光文社文庫のものを読んでいるが、後半の三分の二が解説となっているので私は
「気合いが入っているな」
と思った。