意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

fktackと全体

昨日はズイショさんについて、だいぶ時間を割いて書いたが、やはり私はfktackであるから、私についても同じくらい力を入れて書きたい。とは言うものの、いくら私がズイショさんについて書いたところで、私はズイショさん自身ではないから、昨日の記事にしたって、結局は私は私について書かざるをえない。

私は昨日の記事の終わりで
「私のように全体を比喩のようにしてしまうのも手だ」
というような言葉で結んだのでタイトルを「fktackと全体」
とした。「全体を比喩」とはどういうことだろうか。

と、問いかけの形にすると、まるで私が答えを用意してこの文に臨んでいるように見えるが、まったく私は当てずっぽうで書いた。このように「問い」が設定されると、自動的に答えの型、器が用意され、みんなの関心はその器にどのくらいはみ出さずに盛れたか、どのくらい美しく盛れたかみたいな方にばかり向く。
「空でした!」
というのはさも意外な感じがするが、それでもそこには器はあるわけだから、意外というのは限定的な意外、命綱つきの意外、子供の玩具のような意外なのである。しかし意外という言葉自体に、どこか「想定内」という前提が含まれている。

それで私はここまで書いて「答えてしまった」という感触を得た。私は「全体とはすなわち○○のことなのですよ」みたいな言い回しがイヤで、「○○」というのはつまり限定する行為であり「○○」以外を切り捨ててしまっている。だからよく私たちは何かについて説明をするけれど、説明をするとは何かに標的をしぼって言葉を連ねる行為であるから、しぼった時点でもう何かが失われている。よく電気屋の店員で、電気屋は電気に詳しいからよくしゃべるが、
「それは俺でも知っている」とか、
「聞きたいのはそういんじゃなくて」
とか感じるのはそのためなのである。

私はこうしてブログを書いていて楽しいと感じることのひとつは、自分でもそうは思っていそうもないことを書けてしまうことである。私は私の中に独特の思考の流れがあって、それを言語化するのが私の作業のわけだが、私は自分の感覚よりもその流れを優先するときがあって、そうすると流れ上はこういう論理になる、というときでも自分でもそれが真面目なのか不真面目なのか判断がつかないときがある。「流れ」のぶぶんを「計算」と置き換えてもいい。計算上はこうなるけれど、どうしてもそうなる気がしない、というやつである。

紛いパラドクスみたいなものである。「誕生日のパラドクス」というのがあって、それは学校のクラス、例えば30人いるクラスで、誕生日が同じ日の人がいる確率を計算すると、感覚ではたった30人しかいない、大して一年が365日だから、かなりの低い確率になりそうだが、割り出すと意外と高い確率となる。そして実際にクラスの誕生日調査を行うと、同じ人が二組ぐらい出てきて不思議である。これは正確にはパラドクスではないが、パラドクスっぽいので、私は「紛いパラドクス」と呼んだ。

それで中学三年のときに、この「誕生日のパラドクス」を地でいこうとする教師が現れて、数学の時間、彼女は私たちの席順に誕生日のインタビューを始めた。彼女は数学の教師だった。彼女、というと若そうだが40代か50代の眼鏡をかけた、ちょっと私の母に似た教師だった。それで私の番が回ってきたときに、私が
「9月12日です」
と言ったら、彼女はうまく聞き取れなかったのか、耳の裏側に手のひらをあてて内側に向け、即席の集音器をこさえて、再度私に訊ねた。私はそれなら親切に答えてやろうと思い、
「く、が、つ、じゅ、う、に、に、ち」
と答えたら、近くの男子生徒が、
「おい! 弓岡!」
と私を叱った。私はそのとき悪気はなかったので、あまり叱られている気持ちはなかったが、今思えば良いことをしてもらったと思う。

その男子生徒が誰だったか、今となっては思い出せない。

※紹介したい本があるが、家に忘れたので次回以降に紹介する。