意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

私は文章がうまい

私は時折自分の今まで書いた記事を読み返すときもあるが、そういうときはもっと下手くそだろうな、という覚悟を持って読み始めるのだが、予想に反して上手に書けており、時間を忘れて読みふけってしまうこともある。しかしそういうのは誰でも同じことであり、誰でも自分の書いた文章は面白く読めるものだ。

私はまた、他人のブログも数多く読むが、内容に対しては浅いとか酷いとか感じることもあるが、
「この人の文章はとても下手だな」
と思うことはまずない。さすがブログというのは、腕に覚えのある人ばかりが集まる場所のようだ。

ところで、私はこのところ「プレバト」というテレビ番組を見ることが多く、その番組とは俳句とか活け花とか、とにかくなんでもかんでも芸能人が挑戦して専門家が作品にケチをつけ、順位付けするという番組である。私が番組を見るときは俳句の回であることが多く、そうすると複数の芸能人がそれぞれの自信作を披露する。そこに和服を着た「ザ・俳句人」といった風の中肉中背の女が出てきて、やたらと
「文字の節約」
「節約で浮いた三文字にこの言葉を」
と節約ばかり述べ、一体いつのまに俺は黄金伝説にチャンネルを合わせたんだ? という気になってしまう。こんなに節約ばかりでは、さぞみみっちい俳句ができるだろうと思う。しかしそれは先生が悪いわけではなく、テレビが悪いのであり、テレビとはわかりやすさ前提だから、良い俳句、悪い俳句、というのをきっちり分けなければいけないから、こんなことになるのだ。

文章の上手い下手も同様であり、と、その前に昨日の放送では、絵の回もやっており、芸能人の書く絵書く絵がみんな下手くそに見えたので、
「下手だなあ」
と律儀に感想を述べていたら勢いが余ったのか、先生の見本画も下手くそに見えてきた。

つまり肝要なのは、「上手い・下手」という思考に陥ることなく書き続けることであり、決して100点満点の文章など目指さない。でもせっかくだから私が上手く見せる文のテクニックを披露すると、「ブログという場所は、腕に覚えのある人ばかりが集う場所である」という文は、「場所」という単語が二度も出てくるから野暮ったい。だからどちらかは削っていい。削ると物足りない、と感じることもあるが、それは錯覚なのでじゃんじゃん削りましょう。削るのは良い行為です。

あと、一文は短くすべし、という指南もありますが、これは間違いでとにかく長くなるだけ長くしましょう。どうしてかと言うと、短いと主語と述語の対応とか、バランスとか、リズムとか、読んでいる人にそういうケチをつけるチャンスを与えてしまうからです。長い文章ならば、読んでいるうちにどれが主語だったか忘れてしまうから、もうどんなに滅茶苦茶やったって、上手に仕上がるのです。