意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

冒頭の文が短いと読む気がなくなる

まずは昨日の記事について、欧州を旅した若い叔父が「向こうの人は暑いときには半袖で、寒いときには長袖であることに衝撃をうけた、と書いたら、「逆ではないか」という指摘をいただいたが、私はあそこの箇所は逆になったら大変だ、と割と慎重に書いた。それは私以外の言葉だからである。だから、逆ではない。しかし昨日は書き漏らしてしまったが、叔父が若かったのはもう40年くらい前だから、もうどっちにしたっておんなじなのかもしれない。「欧州」がどこを指すのかも忘れた。もう何年も会っていない。近所に住んでいるわけではないが、成人するまでは三ヶ月に一度くらいは会っていたから、そういうぶぶんに私は自分の老いみたいなのを感じる。私は甥だ。

さて、昨日「ワイドナショー」という番組を見ていたらとある集落でやりとりされる手紙のことが取り上げられていた。取り上げられていた中に、小学生が給食のアイスをどのような順番でたべるのかを、詳細に書かれたものがあって、その詳細さに私は感動した。それは出演者も同じだったが、出演者たちはその感動の根拠を
「手書きだから」
と分析していたが、それは安易すぎやしないか、と私は思った。しかし表面をなぞるのがテレビという装置の役割なのだから、淘汰され生き残ったのが、表面をなぞるのがうまい人たちばかりなのだから仕方がなかった。

それでお決まりの「じゃあ私たちも書きましょう」的なノリになって、案の定どれもひどいものだった。元プロサッカー選手が、自分の甘いものに対する愛着を直筆で書いていたが、これは前述のアイスの小学生と、書いていることは変わらないのに、どうしてここまで違うのかと、私は少し考え込んでしまった。暫定的な答えとしては、「好き」や「愛」が前に出過ぎだからではないか。つまり私たちが「好き」と簡単に言えるものは、実はそれほど好きではない。

他にも2、3の手紙が読まれたがどれも酷く、私はその酷さについてある法則を発見し、それはタイトルにもした、冒頭の文が短いことだった。例えば、
「その日は朝から雨が振っていた。」
とか言われたら、まずは「その日ってなんだよ」と突っ込みたくなる。その日はこれから書かれる事件が起きる日を指す。つまり何らかの出来事が起きることをのっけから宣言されているわけで、私からすると最初に犯人をバラされた推理小説を読まされるような、シラケた気持ちになる。事件のない文章なんてあるわけないといえばその通りだが、その「事件」とは喜怒哀楽のどれかに容易におさまるような、カテゴライズ可能な「事件」なのである。

巷では短い文が良しとされる風潮だが、もちろん短くたって面白いものは面白いが、短くするという行為は、私にしてみると独創性の放棄である。言ってみれば「置きにきている」文章である。書き慣れていない人、どうにか体裁を繕いたい人が、どうにか無難なものに仕上げたくて、主語と述語の堅い結束にすがるのである。冒頭からそういう調子で始まる文章は、とても読もうという気が起きない。