意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

枝見

昨夜も近所の公園に桜を見に行った。近所と言っても車で行くのだが。土手ぞいに桜が生えていて、いちぶがライトアップされている。近くにはヒカリゴケも生えているていうが、私にはどれがヒカリゴケなのかわからない。見つかるのは
「ヒカリゴケ自生場所」
という看板ばかりだ。私は何も理論値という妙な理屈を振りかざし、消費者をがっかりさせるインターネットの光を揶揄したいわけではなかった。土手の上の細い道にカメラをかざした老若男女が点在し、若い男女はお互いの体を触り合ったりしている。年寄りも手くらいは触れる。暗くて危ないからだ。そこにたまに車が通りかかる。どういうわけか、ワンボックスカーばかりだ。中にはぶっといタイヤを装備した、外国製の陸軍払い下げみたいなのを乗り回すやつもいる。そういうのが、対面にすれ違おうとし、相撲のように見合い、どちらかが何メートルか下がり、ドアミラーを折りたたむ。ドアミラーは暗くて見えないが、私はいつもたたむから、そうやって書いた。話はカメラに戻るが、私たちの共通言語とはカメラなのだろうか。ファインダーは翻訳機か。撮った写真をLINEにアップロードし、持ち主の顔もライトアップされる。花見ならぬ、顔見、である。

下の子供までカメラをお年玉で購入し、写真をばちばち撮るようになったから、私も借りて写してみた。私は写真の類には一切興味はないが、子供は引きの写真ばかり撮るから、たまにはアップも撮ってやらねばカメラも退屈するだろう、レンズが花の色ばかり強調するような歪みを起こすだろうと思い、枝先のつぼみを撮った。つぼみは逆光で黒くなり、背景が桜の白い花びらで埋められ、そこだけ穴が空いているような写真が撮れた。子供がそれを見て
「合格」
と言った。

私はドラムをやっていて、自分のスネアドラムというのを買ったときにそれの胴が、メイプルという木の合板で、木は買った当初は水を含んでいるが、年が経つにつれ徐々に失い、それに伴って音も変わる。その年月の間に高音チューニングとか低音とかやると、たとえば高音ばかりだと、高音がどんどん響くように木が変わる。そういうことも、カメラのレンズにも起こるのかなあ、と書きながら思った。

タイトルの「枝見」はさっき別の公園の前を通りかかったら桜が満開で、つまり昨日はまだ満開ではなかった。寒かったから冬のコートを着て、ネックウォーマーを首に巻き付けてでかけた。それは、花見なんてとっとと切り上げるべし、という私の意見の表明であった。満開の桜を見てふと、桜のオフシーズンのとき、ここに桜が植わっていることを、いったい何人が何人認識しているのか、ということを思った。その公園は真ん中に大きな池がありそこを複数の鴨がいったりきたりして、池の横のベンチには屋根があって、そこにゴザが敷いてあって、ゴザの上にはワンカップの空き瓶が置いてあり、それはホームレスの陣地ではないか、と私は思った。猫がたくさん行る公園であり、猫は雑木林からぞろぞろと出てきた。今思えばそれは桜の木だったのかもしれないが、花がなければ雑木林と言い表すしかない。それで桜の時期になるとホームレスはどこかへ追っ払われるのか。それとももういないのか。私はいつの時代の話をしているのか。ホームレスといえば、ホームレスにも派閥というか、シマみたいなのがあるらしく、あるとき父の職場の外の水道を無断で使って頭を洗っている人がいて、それは南の方からやってきたホームレスで、自分はよそ者だから、やむを得ずこの水道を使っているという話を、父はあるとき聞かされた。