意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

サンダーLINE

一昨日に高校時代からの友人と飲みに行った、と書いた。私を含めて三人なのだが、この三人は、高校の卒業コンクールみたいな催しで自分たちで小説を書き、準大賞を穫った。書いたのは二人だった。たしか前にも書いた。私は当然大賞を穫るもんだと思っていたから、頭に来て、卒業式が終わったあと、指導教員の女の国語科の教師に文句を言いに行ったら、
「棚尾らしいわね」
と、笑われた。「らしい」だなんて、論理のすり替えだがそのすぐ後に、
「でも(大賞とったほうは)女の子ひとりで一冊仕上げたわけだし、あなた方は三人だから」
と賞の選考の根拠について説明し、さらに装丁についてもこちらの甘かったぶぶんを指摘したので私は腑に落ちざるを得なかった。内容については何も言わなかった。あとから選評を読むと、取り上げられているのは友人の作品ばかりで、私の方は、
「青春について、なんとか」
みたいにちょっぴり触れるくらいだったから、私の書いたものは相当酷かったのではないか。そのころ私は未熟だったから、書きたい気持ちばかりを重視し、実際書くことについては、てんで注意を払わなかった。誰が「気持ちが大事」なんて言い出したのか。あんなのは嘘である。

それでとにかく結果は出て、そもそも私は自分の書いたものを教師に読まれるなんてありえないと思っていたところに、友人から説得されて書き、だから大賞を穫らなければ割に合わない、と思ったから賞にこだわったのだった。だから指導教員を選ぶときにも、いちばん気の強そうな女教師を選んだ。国語教師というのは公立高校には雑草のようにそこらじゅうに生えているものだが、誰でも良いというわけではなかった。私が選んだ教師というのは、私が教わったころにはだいぶ落ち着いていたが、以前生徒が教室内で隠れて出前をとって蕎麦を食べていたのを見つけたときに、激怒してまだせいろに蕎麦が残っていたのにもかかわらず、せいろで生徒の頭を叩いたらしい。当然彼は蕎麦まみれになったのだった。それくらいの武勇伝を持っている教師ならば、多少は内容に瑕疵があっても、大賞に推してくれるだろうとふんだのである。ことあるごとに
「賞お願いしますね」
と私は念を押した。つまり、私の準大賞は、私の根回しによるところが大きい。

しかしとにかく結果は結果だから、壇上で表彰され、満足しないわけではなかったが、問題があり、実は大賞を穫った女が同じクラスだったから、私たちはクラス内でもいちばんになれず、そのため学級通信の扱いも小さくなった。さらに残念なことに同じクラスには、3年間無遅刻無欠席の人がいて、私たちの扱いはさらに小さくなった。無遅刻無欠席で誉められるなんて、馬鹿みたいだと当時の私は思った。実際友人の中には無遅刻無欠席の人もいたが、あとで誉められるのが嫌だからと、無理やり自動車教習所の入学金を払いに行ったりと、予定を入れて無遅刻無欠席を阻止したのである。

以上の口惜しさについて、一昨日は語った。しかし問題の学級通信については、卒業式当日にペラ紙で配られたからすぐになくしてしまった。そのときはなんとも思わなかったが、今となればやはりもう一度見たいと思う。

それから昨日になって、「昨日はお疲れ」みたいなLINEに適当に返事をし、すぐに寝室の電気を消してシカ菜と寝てしまったら、それからもLINEの着信音が鳴ってうるさいから、マナーモードにしたらその後も何度も着信し、音はないがその度に真っ暗の部屋が一瞬明るくなるから、雷のようだった。だから今日の記事のタイトルはそれにした。無視して寝た。

今朝になって受信内容を見たら、私の言っていた内容は実は卒業文集に綴じられていて、担任が学級通信を綴じたから、私の友人も家に帰って押し入れから文集を引っ張り出して読むことができたのだ。確かに、「無遅刻無欠席のほうが扱いが大きくて気にくわない」などと、細かいことまでよくおぼえていると思ったら、私も文集を何度も読み返し、内容を丸暗記してしまっていたのだ。記憶のエラーである。どうしてエラーが起きたのかと言うと、その学級通信の日付は卒業式当日になっていて、さらに卒業文集は卒業式の日に配られたから、綴じられるわけないと思い込んでいたのである。別に発行日に内容が書かれるなんて、私は信じているわけではないが、担任と卒業文集編集委員が裏でつながっているとは、夢にも思わなかったのである。

しかし私の中には確かに
「何かをなくしてしまった」
「惜しいことをした」
という感情が存在する。もはや感情の中身がなんなのか見当もつかない。