意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

四月はめまぐるしい

今月から仕事の内容に変化があり、いろいろ考えなければいけないことが増え、仕事に思考のリソースを割かれるのは本意ではない。しかし“リソース“という考えを脳や身体に合わさせてしまうのさいかがなものかとも思う。たとえば、学生時代部活と生徒会をあわせて目一杯というクラスメートがいたが、それが中間テストとかで100点とるのが不思議だった。私は部活動はさぼりまくり、生徒会なんて変態の所行と決めつけ、家では夕方のドラマの再放送を見ながら、
「お母さーん、今日の夕飯なに?」
とかやっていたのに、テストでは80点90点がせいぜいだった。もちろんたまには100点もとるが。また、その生徒会の人もたまには95点のときもあっただろう。80点ならばノイローゼになったかもしれない。彼は潔癖なところがあったから。

書写の時間に教壇の左右に水を張ったバケツが用意され、生徒たちはそこで筆を洗うよう教師に指示された。私は廊下側の席だったので、廊下側のバケツに向かって筆を洗いにいくと、廊下側とは北側で日も届きづらく、バケツのでこぼこした表面は南側よりもひんやりしていた。そこで今で言う喫煙室のような雰囲気になって、男女たちが円になってしゃがみながらお喋りに興じた。私は当時はあまりおしゃべりは得意ではなかったから(クラスが悪かった)適当に切り上げて席に戻ろうとし、筆を水から上げた際に水滴が飛び散ってしまった。その一部が、佐藤の上履きにかかってしまった。
「きゃあ」
と佐藤は女のような悲鳴をあげ、その後「信じられない」という語を繰り返したから、私はみっともなく謝罪の言葉を繰り返すしかなかった。佐藤はバスケ部で背が高く、クラスの人気も高かったから、私は必死に謝ったのである。脳の足りない、陸上部の山瀬だったら、
「ざまあ」
とかで済ませたところだ。山瀬の脳の足りないエピソードとして、山瀬は比較的足が早かったが、タイムが良いのは短距離走のみで、ハードル走になると、極端に遅くなった。足の順番等を考えられなかったからである。あと、山瀬は休み時間に廊下でひとり回し蹴りの練習をしていたら、うっかり窓ガラスを割ってしまったこともあり、クラスで回し蹴りが流行っていたわけでもないからバカだった。

そんな山瀬も中学入学時は私よりも背は低く、可愛げもあったが、陸上部で足腰が丈夫になるとぐんぐん背が伸び、一方部活をサボってドラマの再放送を見てばかりの私は、中学卒業前に、完全に背が止まってしまった。山瀬は私を徐々に見下すようになり、ちゃんすがあれば私を回し蹴りの餌食にしようとしたが、回すモーションが緩慢なので、私は余裕で避けることができた。合理主義の私は、回す時間があるなら、二回蹴りで繰り出したら良かろうと、回し蹴りの意味が当時も今も理解できなかった。

話を戻すと、つまり考えることが増えると他の考えに頭が回らないとは必ずしもそうだという話ではなく、私は考えることが増えたせいで、他もぜんぶ考えないと落ち着かないような状態にある。私は家に帰ってからも、ふと仕事のことを考えてしまうと、どこか侮辱されたような気持ちになるが、考える脳みそというのはたぶん仕事とかプライベートとか、そういう垣根はなく、ただ考えるに値することを考えたいだけだ。それとは直接関係なく、たとえば
「少し気持ちがピリピリしてしまっている、落ち着こう」
みたいな考えも浮かぶが、とにかく私は自分が悪いというふうに考えたくはない人間だから、
「それで良し」
という判断に最終的にはなる。