意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

親離れ、子離れ

最近リビングの本棚に中学生向けの真面目な本が置いてあり、おそらくそれはミユミにその母親が買い与えた本だが、ミユミは活字はまず読まないし、それはその母親にしても同じで、おそらくせいぜい表紙のタイトルしか読んでいないだろう。私は読んでもいない本を他人に贈る神経はわからないが、しかし使ってもいない茶碗や箸を、人は贈り合ったりするから、私の神経が異常なのかもしれない。

それで、私はその本を手に取って読んだわけだが、読んだ理由はリビングの一階には私の本は一冊もなかったからである。一階には子供向けの、絵本とかそんなのしかなかった。私は絵本を子供に贈ったこともあるが、そのときはやっぱり中身をちゃんと読んで、吟味してからあげた。しかし当の子供の方(幼いミユミ)は全く気に入らなかったから、吟味してもしなくても同じだった。よく絵本の裏表紙に何年の何月とか、贈った人の氏名が書かれたりすることがあるが、私自身はそういうことはしたことがなく、そこまで自己主張しなくても......とか思ってしまう。私も幼い頃本を贈られたこともあったが、そこには
「本をたくさん読んで、賢い子になりましょう」
と書かれていたが、これこそ思考停止の権化のような言葉ではないか。私は本をたくさん読むこと即ち善という考えが、人を本から遠ざけるのではないかと思う。人は誰でも馬鹿になりたいのだ。それに、私はあえて言われるまでもなく当時はじゅうぶん賢く、母からはしょっちゅう
「頭いいね」
とほめられていた。

それで私はここまで散々本の裏表紙は他でもない所有者の領域なのに、そこに第三者がメッセージを書き込むことに異を唱えてきたわけだが、それではどのように活用するのかというと、私の場合、昔祖父に将棋の本を買ってもらったとき、それは小学四年でクラブ活動が始まるときに、私は将棋オセロ部に入ったので、将棋をおぼえるために買ってもらった。また、そのとき私は学校や家で「ドラゴンラクちゃん」という漫画を連載していたから、裏表紙には主人公のドラゴンラクちゃん第一部の主人公ドラゴンラクちゃんと、第二部の主人公ドラゴンラクちゃん15世が将棋をさしている絵を書き、
「はーじまるよー!!」
とこれから本の内容が始まる旨の吹き出しを書いた。そうしたら、二人が相対する図は自然と横向きとなり、横顔がめちゃんこムズかった。横顔が何故難しいのかというと、鏡一枚では見られないからで、写真などどもポーズを求められると正面ばかりとなって、横顔のものは意外と少ない。それでも不意に撮れた横顔の写真などを見せられると、予想以上に自分が不細工に写っていて驚くのである。つまり、横顔を書くと主人公が不細工になってしまうことが多いが、実は横顔そのものが不細工なので、格好良く書けたらそれはリアルではない横顔なのである。

もうひとつの裏表紙活用例としては、小学校一年ころに、結構長めの小説に挑戦したときに、私は一日ではとても読み切れない長さだった。しかし何のアイディアもなく中断して本を閉じれば、もうどこまで読んだかわからなくなってしまうので、私は裏表紙に何ページの何行目まで読んだか書き込んだのである。それで次の日も途中までしか読めなかったから、今度はその左の行に読んだページと行を書いた。つまりいちばん左の行が最新なのであった。