意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

背表紙

昨日の記事を書いたらズイショさんに、
「背表紙ではなく、裏表紙ではないか」
と、指摘をされ、調べてみると裏表紙だった。そもそも私が「背表紙、裏表紙」という言葉をきちんと理解していたのか不明で、調べてわかってしまうと以前はどうだったのか、もうわからなくなる。確かに本の後ろ側を「裏表紙」と呼ぶのは理にかなっている。表側を「表表紙」と呼ぶのかはわからないが、少なくとも「腹表紙」とは呼ばない。腹には表紙などなく、そう考えると私たちは内臓をかっさばくかのように、本を読む。

私が裏表紙を背表紙と取り違えた理由について考えてみると、私は記事の最初で
「背表紙に書いてある内容は、ふざけてんのかと思うくらい中身と違っている」
と書いていて、しかし世の中には裏表紙と中身は寸分違わず一緒、裏は中身の正確な縮小コピー、と評価している人もいるかもしれないから、そういう人に遠慮して、わざと間違えたのではないか。背表紙にはだいたいは本の題名と著者と出版社の名前が入っていて、それらは中身を表してはいない。表しているのかもしれないが、シンボリックに表している。シンボリックとはイコールで結ばれるわけではない。私はそういうところに逃げ道を作った。

シンボルについて、私がよくおぼえているのは村上春樹の「スプートニクの恋人」という小説で、初めのほうで特徴的な格好をした女が深夜だか早朝に電話ボックスから主人公の男に電話をかけ、
「記号と象徴の違いとはなにか?」
と問うのである。主人公は寝ていたのだがスマートに天皇を例にあげ、象徴とは一方向のイコール関係だと説明する。記号は両方向である。つまり、天皇は国民の象徴であるが国民は天皇の象徴、とは言えないのである。私は小説の中でこのシーンだけをよくおぼえていて、いつも天皇のことを言いたくて、象徴とか記号とか言い出したのかな、と思ってしまう。私はそれまで象徴という言葉と記号という言葉が、同じ俎上にくるなんて、思いもしなかった。

話は変わるが私はタイトルをつけるのが苦手なほうで、特に小説にかんしては、気に入ったタイトルをつけられたことがない。なにかを言い表そう、と格好付けるのが良くないのかもしれない。