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意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

自分の子供を子供と思っていない節がある

さっきTwitterを見ていたらズイショさんが自分は子供を好きでない旨の投稿をされていて、自分もそうだと思った。ついつい忘れがちだが、私も子供が好きではない。しかし今思うと当時タモリがやはり子供が好きでない旨を公表していて、
「あいつら(子供)にはもう少し大人になってほしい」
という言い回しが気に入って、ファッションとして子供嫌いになった節もある。たまに小さい子供と絡むときにわざと嫌そうにし、周りの笑いも取ったこともある。

実際自分が結婚して子供ができると特に嫌な感情を抱くことなく、子供が嫌いだということも忘れがちで、たまに思い出すときにも
「そういえば嫌いだと昔は思っていたが、どうやら克服したようだ」
と思っていた。しかしあるとき1日妻の友達の子を面倒みる機会があり、それは小学校高学年と未就学児という組み合わせで、未就学児は私の下の子と同い年であった。そうしたらそれが途轍もない悪い子で、私は何に対して悪いと評価したかというとそれは全部だが、敢えて取り立てるなら約束を守らないことで、小学生の高学年となればギブとテイクの概要くらいは理解できると思ったが全然そんなことはなく、私は子供だから約束は反古にしてもよし、という態度が見て取れてそれにうんざりした。つまり約束の概念は理解している。私はとうぜん怒ったが、子供シールドを完璧に使いこなす上に、私は妻の人間関係というハンデを背負って怒るのだから、梨のつぶてであった。そこで改めて自分が子供嫌いであることを認識したのだが、それはこの件が特殊であって、子供全体がそうではないから、限られたサンプルで嫌いと評価するのは浅はかですよと言われたらその通りだが、ならなぜ考えを改めないのかというと、決めつけちゃった方が楽だからです。

さっきギブとテイクといったが、つまり私は子供だろうが幼児だろうが、大人の理屈を押し付けるのであり、それをきちんと対応できない子供でないと嫌いになってしまう、ということだ。つまり私は子供らしい子供が嫌なのである。

それでは私の子供がさも大人であるかのような気持ちを、ここまで読んだ人は思うのかもしれない。たしかに私の子供は勘はいいかもしれない。
「お茶をついで」
とか
「ご飯をよそって」
とか甘えるくせに、私が
「よそおうか」
の提案すると、
「いい」
と断る。私は実は「ふざけんなよ、てめー」みたいな態度でいるときが、いちばん上機嫌だということを、子供たちは理解しているのだ。勘がいいというか、一緒に生活しているからそうなったのだ。むしろ私の方が子供たちの性格を理解していない。子供よりも、自分の親の方の性格をよく理解している気がする。自分の子供というのは、原理的に自分が大人にならなければ見られないのだから、大人になってしまうと相対的なものの見方、誰それさんのなんとかバージョン、みたいな具合に自分の子すら分類してしまう。子供の性格を把握できないのは当然なのだ。だから親というのは子に合わせることができず、合わせるのはひたすら子の方なのである。

ところで巷では今、お母さんが死んでしまう絵本についての是非が問われているが、非側の人の理屈では、
「お母さんがカタルシスを得ているだけでは?」
となっているが、そういえば私の家にもこの本があって買ってきたのは妻で、妻は
「とても感動的だ」
と涙を流しているが私は特に感動もしない。だからお母さんのカタルシスといえばその通りだと思うがそれは全く悪くはないと思う。前述の通り合わせるのは子供のほうなのだから、お母さんが感動なりなんなりしてくれればそれだけで子供は安心し、そして文字は文字なのだから決してそれが子供の教育にならないことはない。私は子供にたくさん絵本をというのがちょっと理解できなくて絵本が好きな人ならたくさん子供に読んで聞かせればいいけれど、これも前にも述べたが平仮名ばかりの本を読み続けるのは私には苦痛だ。苦痛を我慢すれば子供の未来は明るいというのかもしれないが、子供は私ではないのだから子供の未来が明るくても私が明るいとは限らない。しかし限らない、とはっきり言い切れないところもあって、それはつまり私が老後に動けなくなったときに子供に頼ってしまう可能性があり、そうなると子供の未来を明るくすることが自分の未来の明度に影響する。しかし私はこれはひとつの夢なのかもしれないが成人後の子供には依存せず自分の好きなように生きたい。タイムマシンがあればと思う。