意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

装置としての小説

小島信夫「寓話」を読んでいる。また同時進行でプルーストの「失われた時を求めて」を読み始めた。死ぬまでに一度くらい読んでおこうと思ったのである。読み始めるとすぐに、
「もももももー」
と私の記憶がどんどんあふれ出てきた。読んでいるのが文字なのか記憶なのか、どちらが主導権なのか曖昧になった。不思議な装置である。私はお寿司のことを思い出した。お寿司とは、小学五年か六年のとき、たまたま隣の席になった背の高い女に、あるとき好きな食べ物を訊ねたところ、
「うーん、あたしはお寿司」
と答え、私はちょっと感動した。たぶんそのときは小集団でリーグ戦みたいに順番に自分の好物を披露していて、みんなオムライスとかステーキとか、洋食ばかりだった。小学六年とは、ちょうどお寿司を低く見る世代なのである。そんな中、背の高い女は
「お寿司」
と堂々と答え、私はカレーライスと答えた自分を恥じた。というのも私の家はめったに外食をしない家庭で、たまに寿司をとるくらいだった。寿司はサビ抜きとそうでないのがあって、夫婦は子供の成長に合わせて皿の組み合わせやサビ抜きの割合を決めた。何故なら子供はワサビが苦手だからである。私は長男であり、最初のうちは大皿二枚を家族五人で食べていたが、すこし成長すると中皿を一皿頼み、それがサビ抜きで私専用の皿となった。さらに成長すると私は両親と同じグループに所属し、中皿は妹が担当した。大皿はどれもサビありで、幼い弟のぶんは、母がわざわざワサビを箸でとって食べさせていた。なので、皿の組み合わせを見れば、私の家の歴史のどの辺りなのかだいたいアタリをつけることができた。母の醤油皿のふちは、ワサビまみれなのであった。

私はふと走馬灯のことを考え、例えば未来でも過去でも、タイムマシンで行くのはとても難しいし無理かもしれない。しかし、死ぬ前の走馬灯の編集ならば少しは自分の好きにできるのではないかと思った。もし可能であれば、私はもう一度背の高い女の
「うーん、あたしはお寿司」
が聞きたいと思った。

2.

「寓話」は浜中という青い目をした旧日本兵の妹の手紙の場面となり、それはとても長い手紙で、手紙のようには見えない。語りの中に会話が入ってくると、一体どちらの台詞なのか容易に判断できない。妹は兄の実父の後妻に会いに行き、そこでハムレットの話をするのだが、どちらも一人称が「私」だからややこしい。小説の台詞とは、「」の出てくる順が偶数か奇数かで誰の台詞か判断する根拠になったりするが、そもそもが妹の語りであるから「」が入れ子になっていてじっくり読んでも結局どちらなのかわからない。どちらでもないのかもしれない。しかし「寓話」はこの手紙のあたりから面白くなってくる。この後また別の女性や、その娘がそれぞれに手紙を送ってきたりして案の定「これって誰の手紙だっけ?」となる。私は前に一度「寓話」を最後まで読んでいるが、この手紙の文面を読んでいると、日本語としてもあやしいぶぶんがある。細かいところ細かいところと見ていくと、一体どこが面白いのかさっぱりなのだが、しかし読むのに苦にならない。

ピカソの絵を見て「これなら俺にもできそう」と、前衛的なぶぶんばかり真似するのは、本当はピカソはデッサンも基礎的な画力も優れていて、だからああやって崩せるんだよ、みたいな主張を見かけて、果たしてそうなのか疑問だ。中学のときの美術の先生もピカソの若い頃の自画像を教壇の前でかかげて、
ピカソはこういう絵も書ける。だからすごい」
みたいなことを言っていて、もうその先生の名前も忘れたが今会ってこの話をしても、
「いや、そういう意味では言ってないよ」
と言うと思うが、そういう写実的な誰が見ても「上手」と思える絵をみんなの前に出した時点で違うと思う。もちろんそれは順序の話で、いちばん最初に写実的を出して、
「私の中のピカソは、これ」
と言うのは全然いい。そうじゃなくて、作品の魅力を他の作品で担保するのはいかがなものか、という話である。

話がずれたが、私の経験的に「これならできそう」という感覚は極めて重要で、一方「この人みたくなりたいのなら、まずはこれ」みたいはアドバイスは全く間違っている。そういう人は芸術とスポーツがごっちゃになっている人で、絵を習うのに
「まずは絵筆を支える筋肉を鍛えましょう、腕立て30回」
みたいな滑稽なアドバイスをしていることに、本人は気づかない。

ピカソのなんとかって絵っぽいの書きたい、と思ったらとにかくその絵を気の済むまで真似することを、私はオススメする。例えば他の絵を見るとか、基礎だとかいうのは、気が向かない限りはやらない方がいい。大抵の人は間違ったことをいうので、人の言葉には耳を貸さず、自分の直感を信じた方がいい。直感が「やめろ」と言うなら、それは才能のない合図だから従った方がいい。しかし、直感なのか、誰かの言葉なのか判断つかない場合は、惰性で続けた方がいいかもしれない。「ピカソの絵っぽい」が実は絵とは関係ないものなのかもしれないので、あまり真面目に絵に取り組まなくても良い。