意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

なんで毎日ブログなんてかかなきゃならないのか

お昼にカップラーメンを食べてから二階に行き、少し本を読んでうつらうつらしてから、やがて寝た。すると今日は風の強い日で、窓にかけられたレースのカーテンがフレアスカートのように風を受け止めてふくらんだ。必然的に下の方にスペースが開き、そこから日の光が差し込んで私のまぶたがまぶしい。代わりに風が直接体に当たって心地が良かった。

「正しいことをしようとすれば孤立する」

というタイトルで記事を書こうと思ったが、以前にも書いた気がする。特にひねりのない、字句通りの内容で私の経験則である。そういうことが実際にあった。万人が正しい行動、考えを持っているわけではなく、万人は多くの人が支持していれば正しいと錯覚する。そして「多くの人」も主観的な尺度によって反応するのである。私がたまたまそういう人生だった、というだけの話だろうか。私は20代の頃に、わりかし個性的な人と関わることが多く、これだけは誰もがAというだろう、と高をくくっていた考えすらも、真逆のことを言い出す人がいて、あ然としたことがある。

私は最近「理解できない」という言葉が嫌いで、よく考えると昔からこの手のことはよく言われる機会があったから、昔から嫌いだった。理解できないとは、理解しようとしないという意味であり、自分の価値観が反転する恐れから出る自己防衛の言葉と私は解釈する。少し前に「久保みねヒャダこじらせナイト」という番組で視聴者が
「......と感じるのは、私だけでしょうか?」 という言葉で締めくくる投稿をしていて、内容は忘れたが、MCの三人はこの締めの言葉が気に入らずに、
「少なくともこの人は「私だけ」とは思っていないはず」
と批判していた。「久保みねヒャダこじらせナイト」とは、三人組の番組なのです。この、「私だけ」と私のいう「理解できない」は同じニュアンスなのです。

それで、ここまでのことをなぜ考えたのかと説明しますと、一昨日に煙草のポイ捨てに苦言を呈した人に対して、「ポイ捨ては地域の絆を深めるから是である」という主張をした人がいて、これだけだと頭のおかしい人の主張だが、要するにポイ捨てされた吸い殻を地元の人が何月何日の朝にゴミ拾いをしましょうよ、みたいな行事をやって、そこでオレンジジュースを振る舞ったりして地域の人たちはそこで親睦を深めるから、ポイ捨ては悪いイメージしかないが、こういう副次的なメリットもあるのですよという主張だった。

奇しくも今朝私の住んでいる地域が資源回収をやっており、それは小学三年以上の子を持つ親が分担して各家庭のゴミを集めてまわるという行事で、車で集める。私の家は妻の軽自動車で集めるからいくらも積めず、しかも今回は私もたまたま仕事が休みだからといって車に乗り込み、圧倒的にゴミより人の方が多かった。私の子供の、シカ菜も乗っていたからだ。だけれども、粋がった親が軽トラックでぐるぐる巡回するから、私たちは単に
「助かりますー」
とにこにこしていれば済む話だった。しかしシカ菜は不満であり、理由をきくと、資源回収とは、近所を歩いて回って吸い殻を拾って集める行事だと思いこんでいた。だからがっかりした。私は少しでも彼女の不満が解消できるように、軽めの新聞の束を運ばせた。私は腰が痛いから、軽い物でも持ち上げたくなかった。そういえば私も子供のころに近所のゴミ拾いに、朝6時半に起きて公民館までの道すがらゴミを拾いながら歩いたが、田舎だったからゴミなどなく、仕方なく枯れ葉とか、あとは枯れてないのもむしって袋に入れた。そうしたら元防空壕の公民館で区長が私にバヤリースオレンジを渡してくれ、しかし私はうしろめたかった。

私は何が言いたいのかというと、つまり煙草のポイ捨てを是とする人は、いつまでも過去に縛られたままの孤独な人だ。