意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

いつまで生きるか問題

たまにネットなんかを見ていると高齢者の話題がでていることがあり、そういうのに「高齢者は死んでほしい」というようなコメントを寄せる人がいるが、そういう人はおそらく若いのだろうが自分と年寄りが地続きであるという視点が欠けている。私はもう中年といってもいい年齢なのでおいそれと「高齢者にいなくなってほしい」とは思わないが、若くても同じ気がする。それはあなたが食うに困っておらず、比較的豊かな生活をしているからですよと言われればそうかもしれない。私は私自身が我慢することにはあまり感じないが、子供にお金がないからと言って我慢させるときなんかは、とても惨めな気分になる。じっさい泣きたい気持ちにもなるが、でもそういうのってどこか胡散臭い。胡散臭いというのは、子供に対して私は可哀想な気持ちを抱いているが、心のどこかでは同時に気持ちの良さを感じているということである。

私は私をあまり信用していない、というかわかった気になる自分がイヤなので、例えば動けなくなったら死ぬ、みたいなことを主張する人もいるが、その人がじっさい動ける人だったらその言葉はまったく信用できない。死にたいかどうかは、じっさいに動けなくなるまではわからないのである。また、手押し車を押しながら、よろよろと前屈みになりながらのろのろ歩く老婆を見て、
「どうしてこんな醜態をさらしてまで生きるのだろう」
と疑問に持つ人もいるようだが、やはりそういう発想の人は子供っぽいというか、世界の人々はぜんぶ自分の複製と思っているのではないか。複製ではないのである。それに、なにも高齢者だけが老いているわけではない。私はおよそ五年前に、全力疾走をしたら、心臓が止まるかと思った。胃の中のものをすべて吐き出しそうになった。もう何年全力疾走していないのだろう、と考え頭の中でイメージするように体を動かせないことを悟った。それは、そのときは全力疾走という非日常行為だったからまだ良かったが、これからどんどん日常にじわじわと染み入ってくるのだろう。逆だ。私たちは動かせる範囲を持って「日常」と呼ぶのだ。だから、やはり背の曲がった老婆も自分の日常を生き、どんどん拡張していけば、寝たきりも日常だ。日常を生きている。

日常とは今現在のことである。