読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

時代的なものをどこまで入れるか

昼間記事を読んでいたらとある漫画家が、後から読む人に古臭さをかんじさせないために、自分の漫画には携帯電話等極力出さないようにしている、というのがあった。

私が子供のころ、小学高年か中学のある日、居間でぼんやりしていたら母が
「ノリオってなあに?」
と訊いてきて、ノリオだったか正確には忘れたが、とにかくそれは当時テレビでやっていた「とんねるずのみなさんのおかげです」という番組の中のキャラクターで、名前の中に「ノリ」と入っているとそれはとんねるずのメンバーである木梨憲武が演じていることを意味する。母はテレビはそんなに熱心に見ないからそのことを知らなかった。しかしそのとき読んでいた推理小説で(母は推理小説が好きなのだ)出し抜けに
「「おかげです」のノリオのような格好の男が」
という文章が出てきて、それがどんな格好なのかイメージできなかったのである。私はノリオの外見的特徴、学ランを着て丸眼鏡をかけて鼻水を垂らしている、みたいな説明をしながら
「なに描写さぼってんだよ」
と思った。

だからフィクションに流行りものを入れるのはどうなのか、と昔は思っていたが、最近はあまり思わなくなった。

コブラという漫画を子供の時に読んだとき、女の人が露出の多い、服装、あるいは少なくても体のラインが強調されるぴちっとした服装ばかりしているのを見て、これは10年20年先に読み返しても、決して古くささを感じない、究極の装飾というものだ、と私は納得しながら読んだわけだが、実際今読み返すと、そういう未来という発想自体に古くささを感じる。コブラは近未来のSFなのだ。その当時はおそらく火星人とかが信じられていて、話の中にも
木星人の俺の怪力でも開けられない」
みたいなやり取りが出てくる。彼は牢に閉じ込められていたのだった。いや、信じるというか、信じる余地があったのかもしれない。

それでここから支離滅裂なことを書くが、私は海外の小説家が書いた海外を舞台にした小説を読むが、やはり頭の中では日本の家屋や人が登場してしまう。さっきカフカの「城」の冒頭の酒場のシーンを読んだが、どうしても土間のようなところにKが寝ているような気がしてしまう。海外も土間はあるのか。今はだいぶ映像が発達したから、比較的容易に海外の建物や人を思い浮かべることができるが、それでも建物の柱の材質とか、学校の校庭の砂などは、まだまだ日本製だ。

どうして文字が廃れないのかと言えばそれは記号であり、記号であるがゆえにサイズが小さいから持ち運びに便利だからだろう。それはデータという質量のないものになっても同じことで、だから今のところブログのようなものが個人の●●におさまりきらず、多くの人の目に触れ、楽しませたり怒らせたりする。しかしあと何年かして、画像も映像ももっと軽くなったら、そっちの方をたくさん見たほうがいいだろう。私たちは本を読むより、外国に行くか、外国の映像をたくさん見たほうが良い。「本のよいところ」みたいな議論もあるが、本の良さが映像に担保されるパターンもある。