意味をあたえる

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「ゆとり」という評価が思考停止の足がかりとなる

前も同じようなことを書いたが、仕事のできない若い人について、
「ゆとりだから」
と評するのは非常に危険なことだ。危険というか、残念というか、愚かさの坂を転げ落ちるというか。それはある年代の教育を受けた人たちは他の年代に比べて何かが足りなくて、代わりによけいな物が付加された、という客観的視点に寄りかかるからで、客観的、というのは場合によってはみんながそうだからそうだ、というような自分の視点の放棄による責任逃れのうまい手段になる。

仕事ができない人というのに当たったら、やはり世代ではなく、その人自身を見るべきではないか。その人の性格とか経験とか家庭環境とかそういう情報を統合し、評価者オリジナルのダメな理由というものを仮説立てなければいけない。それが二人以上になれば何らかの法則性を見出すことができ、十人二十人になって初めて「世代」という言葉を使えるようになるのではないか。どうしてこんな風に慎重にならなければならないのかというと、そうしないと人当たりのいい、おべっかの上手な人ばかりが評価され、出世してしまうからである。もちろんそれはそれで気分がいいが、長い目で見れば適材適所でなければ、最終的に自分が楽できない。

と、似たようなことはこのブログで二回か三回書いた気がする。私はどうしてここまで「ゆとり」という言葉が嫌いなのか。また、どうして「ゆとり」を思考停止のシンボルとしたがり、それを足掛かりにして考え続けることの大切さを説こうとするのか。どうして思考停止がいけないのか。

私が最初に働いた職場で自分よりも一歳上の男の人が後輩として入ったが、この人が典型的なダメな人で要領が悪くて仕事が遅く、これだけは間違えないでくれ、というようなことを間違えるという人だった。私と上司はこの酷い仕事ぶりについて、少人数の事務所だったこともありこれではゆくゆく大変なことになると思って上に頼んで不採用としてもらった。試用期間だったので。それから少しして、今度は女の人が入ったがこの人は前よりは全然仕事が早く、私と上司は大喜びしたのだが、結局は短所のほうが大きく、特に上司は上司なゆえにその短所にも足を踏み入れねばならず、あるとき彼女が休みの時、
「あいつ(前のやつ)、辞めさせなきゃ良かった」
と苦々しい顔をして言っていた。つまりこの話で私が言いたいことは、仕事が遅いとか要領が悪いというのは短所かもしれないが、決して致命的ではないということだ。