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意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

結局殴る

私の記事はタイトルと内容が合っていないことがたびたびあるが、それはタイトルを書いてから内容に移るからである。もちろんタイトルを決め、それについて書くよう努力すればタイトルにそぐった内容を書けるのかもしれないが、タイトルを書き終わり、本文に移ろうとするとするときになにかノイズのようなものが混じってしまい、タイトルを書くときの思考にどうしてもなれない。例えば鳥というタイトルで、実際に鳥について書こうとすると、どこか嘘をついているような、後ろめたい気持ちになってしまう。私は思うに、私の場合タイトルはタイトルで完結しているためではないか。つまり、タイトルで書いた文字以上のものはない、という仮説である。たとえば文学というものがあるが、かなり短い文字数でも場合によっては文学と認められるパターンもあるようだから、タイトルの文字数で完結するというのは異様なかんじがするが、異様にかんじる私が異様なだけかもしれない。

 

とにかく私は私が思っているよりもずっと複雑な手順を踏んでから日々書くことに向かっているようだ。ところで、私がタイトルと本文について前段落では書きましたが、そうしたらなぜか頭の中に石原慎太郎が思い浮かんで、

「そんな馬鹿な話があるか。それは君、一種の気取りだ、こけおどしだ。私はこうして君の頭の中に登場するが、君の書いた物なんてとても読む気にならない」

と、散々怒られてしまい困った。今が都知事選の時期だからかしら? とにかく石原慎太郎にかぎらず、およそ小説家と呼ばれる人たちはとにかく他人の書いたものに厳しくて困る。その様子から察するに、自分の書いた物に対しては相当やりこんでいるはずで、そうまでして書くのは大変そうだ。柳美里という作家は作家以外ではおそらく生きていくことすら難しい人物だ、というのを過去にどこかで読んだが、それはとても不幸だ。それなのに、私たちはその不幸を羨ましがる傾向にある。

 

話は変わるが、よく「その身になってみて初めてわかった」とか、「当事者になって初めてわかった」という旨の告白を目にするが、それはひっくり返せば「当事者にならなければわからない」と宣言していることだから、とても悲しいと思った。それらの人たちの願いとはおそらく、当事者じゃない人にもその不幸であるとか不便さを理解してほしいことにあると察するが、最初から「無理だ」と言い切っているから伝わらない。かなりの困難をともなうが、どうにか疑似当事者になってほしいというのが狙いなのだが、かなりの困難を伴って書いているように見えない。テクニックの話だったらごめんなさい。しかし、上辺の言葉だけでわかってもらおうとするのは虫が良すぎないか。だったら、不用意に「当事者にならなければ」なんて使わずに、もっと言葉の精度に気をつけよう。私が思うに、人は自分の知っていることは人に知られたくないという本能(あるいは洗脳)があって、それが軽い言葉を選ばせてしまい、書き手を現状にとどまらせようとするのではないか。

 

※この記事の冒頭に書かれたことはウソで、筆者はタイトルはいちばん最後に内容と照らし合わせながら考えています。