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意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

文章が下手になった

仕事でメールを書く機会が多くなり、思っていることがうまく文字にできず苦労する。そんなときは一行目と二行目を入れ替えるとうまくいったりする。苦労するというのは、つまり私は周りに仕事のできるやつと思われたい、という姿勢の現れだろうか。相手を気遣うと「なに言ってんですか?」みたいな返事が来る。私は電話の方が手っ取り早いというタイプだ。しかし最近ではしゃべっていても結局なにが言いたいんだ? みたいなことが多い。もともと私は前もってしゃべることを考えても、しゃべりながらそのとき思ったことを無理やり入れ込んでしまうことが多く、そういう脳直結のリアルタイムでしゃべれることが私の売り、と思っている節がある。だけれどもそっちの後からのほうに熱を入れ込んでしまうと、元来た道がわからなくなってしまう。黙っていると相手が取り持ってくれたりするから、会話と便利な装置だ。

私が喋るのが下手になった、あるいは文章が下手になったのは、書き続けてしまったせいだと分析した。書き続けてもうまくなるとは限らない。昨日も「主語を減らしましょう」「接続詞を減らしましょう」みたいな記事を読んだ。これらを守れば素晴らしい文章が書けるのは間違いない。しかし素晴らしい、とは序の口だ。素晴らしいものを書けるようになって「極めた」と思えたらそれでじゅうぶんだ。私は思えなかった。それどころか書くのがどんどん億劫になってしまったから、方針を変えた。推考をして必ず良くなると思っている人は、素直に考えて、自分を過信している。

そういえば昨日ズイショさんが記憶のねつ造について書いていて、そういった体験談を募集していて私も応募してズイショさんの記事をきちんと読んでいることをアピールしようと思ったが、私の記憶は極めて整然として正確無比だった。保坂和志YouTubeでしゃべっている友達の話で、その人はその人の友達からきいた話を完全に自分の体験だと思っていて「こんなことがあった」とあろうことか、教えてくれた人に話してしまい、
「え?」
となったところで、勘違い野郎は、
「あ、俺じゃなかった!」
と大声を出す。このエピソードは思い出す度に笑ってしまうが、少し恐ろしくもある。記憶というのは自分と他人を取り違えるのか。私たちは毎日100%の私であり、私(私)はそれをよく、
「引きはがせない自分」
も表現するが、そういうことを言ってもたぶんみんなは「あたり前じゃん」みたいな反応をする。しかし私はここ一年くらい、「そこまであたり前のことなのか?」と思うようになった。私は私のことをよく知っていて逆に私以外のことが膜が張ったみたいによくとらえられないのは奇妙だ。若い頃はよく私は女を目の前にして、どのくらいの確率で性行為ができるかなんて考えたが、そのときはわからないのが楽しかった。これは100%! というときにすっとぼけるのが楽しかった。

それで私はよくブログで過去の話を持ち出すが、たくさん書いてくると書く度に記憶が上書きされ、今度思い出すとその文字のほうを思い出してしまい、これは一種のねつ造ではないか、と思う。私はここ最近どういうわけか思い出すことを恥ずかしいと思うようになり、そんなとき私は
「人格とは記憶の重なりだよ」
と言って自分を励ます。自分に自信のある人は、いっちょそうやって過去の自分を乗り越えたらどうだろうか? 本末転倒か。よく「変わった」という人がいるが、それは記憶の解釈が変わったことによる結果である。

以上、ご確認のほどよろしくお願いいたします。