意味をあたえる

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24時間テレビのギャラ

私は数年前までは「24時間テレビ・27時間テレビ恐怖症」と自称していてそれは周りに番組に対してネガティブな感情を持つ人がいなかったからで、そういえば私は90年代は
タモリが好き」
なんて言っていたがそれも友達が
タモリのどこが面白いのかわからない」
と言っていた影響が大きい。私は決して時代を先取りしていると言いたいわけではないが、時代の空気が変わり、いくつかは私に合わせてくれた。しかしいくつかの分野で追い風が吹くと、もうそれについて語ろうとは思わない。自分以外の誰かが言ってくれればそれで充分だと思う。もちろん結果として、
「あなたの主張は○○だね」
とカテゴライズされてしまうこともあるが、気づいてなければ、あるいは気づいたことを自覚しなければセーフだ。そういう意味で私は無知なことはアドバンテージだと思っている。世の中は知りたがりであふれかえっているが、重要なのはいかに他人に影響されず、自分のペース、自分のテンポを守れるかである。例えば含蓄の含んだ言葉に出合った場合、必ずそれに対する反論を自分の中で組み立て、戦わせて、というかそういうプロセスがなければ血肉にはならないだろう。そこに早い遅いという発想が入るのは意味がわからない。

ところで十年以上前に友達とチャリティーコンサートについて話していて、私は出演者にはギャラが支払われていないことを知ってびっくりした。友達はギャラが支払われることにびっくりした。つまりどちらも払うのと払わないのとどちらが一般的なのか知らなかった。今も知らない。ケースバイケース、だろう、収益金の一部を寄付しますみたいな断りを見たことがあるので。

数日前に都市伝説のサイトを見ていたら24時間テレビの都市伝説、というのがあって読んだら西田ひかるが24時間テレビの記者会見で、
「ギャラがあることにびっくりした」
と語り、スタッフがあわてて制止したという話が出ていたが、それを読んで上記の友人とのやり取りを思い出し、ギャラはギャラ、寄付は寄付という考えを思い出した。私はそのとき友人に、
「ギャラはギャラとして一度は支払うべきで、その後に出演者が同額寄付すればいい」
と説明した。なんでそんなややこしいことすんねん、と友人は納得していないようだったが、この人は私の言うことをいつも一理あるという風に受け止める人だから、それ以上反論しなかった。なんで、と問われれば「それがプロだから」と答えた。

そういう風に考えるようになったのはおそらく村上春樹の影響で、昔読んだエッセイに、小説家は対談というのをたまにやるが、料亭などでご飯を食べながらやることがある。そのときその食事代がギャラの代わりとなる(つまり実質ノーギャラ)ことがあるが、自分はそういうことはしない、書いてあった。あと漫画ブラックジャックの影響もいくらかある。

それから十年以上が経って私はいまだに何のプロではないから、プロというものに幻想を抱きすぎなのかもしれない。しかし結果的にノーギャラ、なあなあでやるにしても自分の中で「一体何をもってプロなのか」という定義を少なくない時間をかけて築いていかないと、最後は自分が蝕まれてしまう。